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2012年11月03日

● セイジ -陸の魚-


映画「セイジ -陸の魚-」のDVDを見て 思うところがあって原作本を読んだ




セイジ -陸の魚-

セイジ -陸の魚-


「新井浩文」と「渋川清彦」の演技が見たくて この映画のDVDを入手してはいたのだが、このクソブログにカテゴリーを設けた個人的「お気に入り」が出演していなかったので未見DVDの山に埋もれさせていたのだが、ある方からリクエストを頂戴し、順番を変えて見た。


セイジ -陸の魚-


「新井浩文」は「高橋一生」と並んで30代の俳優の中で私が個人的に注目している俳優であり、この映画でも持ち味を存分に発揮していると思う。


「渋川清彦」は


ゴールデンスランバー


映画「ゴールデンスランバー」で惹かれて以来 密かに注目しているのだが


セイジ -陸の魚-


やはり、なかなかロックで良い。


セイジ -陸の魚-


「裕木奈江」を日本の映画やドラマで見るのは実に久しぶりなのだが 


北の国から'92巣立ち

北の国から'92巣立ち


やはり、私の中では今でも「北の国から'92巣立ち」のタマコなわけで…


あ、蛇足だが 


北の国から'92巣立ち


この「北の国から'92巣立ち」の後編では


北の国から'92巣立ち


上のクレジット画面にもあるように


北の国から'92巣立ち


「西島秀俊」が出演しており、さらに蛇足を付け加えると


北の国から'92巣立ち


上の画面中央の人物は「渡部篤郎」 どちらも純の東京の小学生時代の同級生役。


ま、それはさておき…




【※注意 以下の記事にはこの映画のネタバレが満載です】




この映画「セイジ」のDVDを見終えた時 このクソブログ内に時々掲示する喫茶「職安」と少し似た設定に興味深く感じつつ、であるがゆえにいくつかの疑問が私の中で湧いた。


なので、二度、三度とDVDを最初から最後まで見直してみたところ いくつかの疑問は自己解決出来たけど、それでも自己解決出来ない疑問がいくつか残った。


主に気になった点は


(1)セイジはどうしてその店に来て居着いたのか?

(2)ゲン爺は目が見えないのか? もしくは、僅かながらでも見えるのか?

(3)タビビトは何故20年もその店に再び行かなかったのか?

(4)ショウコやセイジや常連達のその後は?

(5)店の権利がいつの間にリツ子の物になったのか?


どうしてもそれらが気になったので原作本を入手し読み その結果、殆どの疑問は解けた。


先に断っておくが、以下の記述において 私は原作と映画の「面白さの比較」を述べるつもりは全く無い。


結論として、興味深く面白い映画ではあるが いろんな意味で納得がいかない事も多い… そういう意味での感想と私見を述べたいと思っているだけだという事を どうか事前に御了解願いたい。


で、本文だが…


この映画ではタイトルから判る通り西島秀俊が演じた「セイジ」が主人公なんだけど、原作では


セイジ -陸の魚-


「森山未來」が演じた「タビビト」と呼ばれた青年が たまたま自転車旅行の途中で立ち寄り、居着いたドライブインの様な居酒屋みたいな店「House 475」を舞台で起きたできごとを「タビビト」の視点で描かれている


映画においては「タビビト」の視点と それとは違う回想シーンなどで構成されているが、それについては 何ヶ所か時系列を遡ったり、入れ替えたりした構成の意味が結局私には判らず、そもそも根本的に その回想シーンって何の為?と全く意味を感じないシーンすらある


セイジ -陸の魚-


とか


セイジ -陸の魚-


(その代表が上のシーン)


思うに、これはあくまでも私の想像だが 私はこの「セイジ」の原作を読んで確認した結果 「セイジ」は物語の根幹なんだけど主人公ではなく、主人公は森山未來が演じた「タビビト」であって そのタビビトが大学4年の夏に見て体験した「セイジ」という人物の言動や行動から学び感じた事こそが主題なのだ。


ゆえに、代表的なシーンとして上にキャプを掲示したシーンや「裕木奈江」が演じた「翔子」とセイジに男と女の関係があるか否かなんて事はどうでもいい事なんだな


セイジ -陸の魚-


肝心な事は セイジという人物の思考はけっして一般的とは言えないが、妙に説得力のある人物で タビビトはどんどん惹き込まれていくのだが、その辺の描き方が映画では乏しい


私がDVDを見終えた時の


疑問(1)『セイジはどうしてその店に来て居着いたのか?』


という点について


セイジ -陸の魚-


この映画の設定の様に「セイジから”ここで働けますか?”と望んだ」のと 原作における「翔子が”ああこの人にあの店をやってもらおうか”となんとなくそう思った」のがキッカケでは真逆もいいとこで 何故、そういう変更にしたのだろう?という疑問だけが残るけど それは些末な事でもある


もっと重要な点は 原作には無く映画におけるセイジは


セイジ -陸の魚-


子供の頃、両親から兄妹で虐待を受け 妹が殺されると怖れて両親を殺害し少年院に入ったが、その少年院に入っている間に妹が(なんらかの理由で)死んでしまった…という過去を持つ という設定を盛り込んだこの映画の制作陣の意図は少なからず理解出来なくも無いが… ま、それについては後述する。


セイジ -陸の魚-


疑問(2)『ゲン爺は目が見えないのか? もしくは、僅かながらでも見えるのか?』


原作を読んだところ ゲン爺が目に障害を持つ記述は全く無い。


思うにこの設定は リツ子が襲われた際、ゲン爺は直ぐそばに居たのだが目が見えず、直前にヘッドホンをしていた為に即応出来なかった…という風に悲劇性を高めてゲン爺の痛恨を深めようとするこの映画の制作陣の演出的意図だと推察し、その意図は少なからず理解出来なくも無いが…


要するに、原作において「何故、セイジは自分の腕を切り落としたのか?」という理由付けが薄すぎると考えたこの映画の制作陣は背景や悲劇性を付加する事で肉付けしようと図ったのだろう… それは理解出来る範疇でもあると感じたので批難はしない。


でもね、逆に原作において大きなポイントでもある部分を映画では ともすればおざなりにしてしまっている点はいただけない。


セイジ -陸の魚-

セイジ -陸の魚-


それは「ツノ先生」がセイジをリツ子の見舞いに行く様に故意的に仕組み、「タビビト」も免許持っているのに無いと嘘をついて同調したところ


「リツ子ちゃんの前にセイジさんを置いてみたかった」

(原作p106から抜粋


その結果、セイジの事件が起きリツ子は覚醒するのだけど、問題は事件が起きた後の「タビビト」の行動の描き方にある


映画では


セイジ -陸の魚-

「そして僕は逃げる様に現実に戻った」


と、「タビビト」のモノローグ


原作では、


セイジさんのそんな事があってから、二週間の後、僕は、あの町を離れた。

(中略)

ただ、町を離れるにあたっての心残りを極めて軽いものにしてくれた事に、その十数日間のうちにリツ子ちゃんが僕達に見せてくれた、その、心の、めざましい回復ぶりというものがあった。 逆に言えば、それが僕に町を離れる決心をさせてくれたと言ってもよかった。

(原作p118から抜粋


映画では逃げる様に町から去り、原作ではリツ子の回復を見て安心したかの様に町を去る…

これって冷静に比較すると真逆な去り方なんだよね


映画と原作、どちらの「町からの去り方」に説得力を感じるか?


疑問(3)『タビビトは何故20年もその店に再び行かなかったのか?』


たしかに逃げる様に去った方が その後の20年間に一度も町を訪ねようとはしなかった理由付けの様に考える事も出来なくは無い。


しかしながら、あくまでも私の個人感、喫茶「職安」での経験論に基づいて言えば 原作の去り方に説得力を感じるから上記疑問(3)が私の頭から離れなかったんだ。


だって、セイジの事件のキッカケを作ったのは「ツノ先生」であり「タビビト」なのだ


引き金を引いた以上、それなりに結末に立ち会うのは義務だと考えるからだ。


で、実は原作を読むと容易に気づく事なんだけど…


映画では 20年後に


セイジ -陸の魚-


「タビビト」の許に送られてきた企画書がキッカケで「タビビト」は町に向かう設定だが、原作では


『10年後のある日、同僚からリツ子先生という名の美人の幼稚園の先生になろうとしている人が 左の手首から先が無い』


と聞き 町に行くのではなく、リツ子先生に会いに行く…と描かれている。


映画の冒頭に廃屋となった「House 475」の屋内の様子の数カットに続いて


セイジ -陸の魚-


上のキャプ画のカットがある事から、おそらくリツ子が「タビビト」に企画書を送ったのだろうと示唆するシーンと受け止める。


映画と原作、どっちのエピローグの導入設定に説得力を感じる? と言うか、何故映画化の際に原作の「10年後」という設定を「20年後」に設定を変えたのか?


もし私が「タビビト」の様な状況に遭遇したら10年も間を空けず、数年のうち(たぶん翌年に)一度は町を訪ねるはずなので どっちの設定にも説得力を感じない。


が、二者択一でどちらかを選べと言われたら 映画の様にリツ子から呼び出される形式より、噂を聞いて自分から訪ねる形式の方が私の選択だと考え選ぶ


だからこそ そんな私の行動形式で言えば


疑問(4)『ショウコやセイジや常連達のその後は?』


という点は知ってるはずの事なので気になって仕方が無い。^^;


疑問(5)店の権利がいつの間にリツ子の物になったのか?


これ、DVDを見直したら正確には「権利者」ではなく「今の管理者」という言い方なので大きな疑問では無くなった。




【※注意 これより以下の記事にはこの映画の最悪なネタバレが満載です】




で、総論的な感想と私見だが…


この記事を記し始めるまで この映画の監督であり、3名の脚本担当のうちの一人が「伊勢谷友介」である事に気づいておらず、気づいたからこそ少し調べてみたらwikiに「伊勢谷友介」がTVドラマに出演しない理由として


『(連続ドラマは)監督が一人ではない場合が多いため演出の統一性がなく、また、視聴率に左右されて脚本が変わることが(映像に関わる人間として)飲み込めない』


と語っている…と言う記述が目に入った。


この発言は確かに仰る通りだと私も心から賛同する。


しかし、この発言が本当で それが信念みたいなものとして本当に持ち合わせているならば 映画に原作を用いる際、監督(映像に関わる人間として)が原作の最大の魅力を改悪するのは如何なものか? 腹を切るか、滝に打たれて出直せと問い詰めたい。


映画のエンディングで20年後のリツ子は「タビビト」に


セイジ -陸の魚-


「私の神様は 今でもちゃんと心の中で生きてますから」と言い


それに対して、原作における10年後のリツ子は「タビビト」に


「…だって、私、神様を目の前で見たんだもの」と言う


セイジが生きているか否かなんて問題はどうでもいい。


目の前で両親を殺され、自分も左手首を切り落とされ 心を失ってしまった少女に、その心を甦らせた者こそ「神様」同然なんだ。


私は無神論者であり、神様とか宗教なんてクソ食らえと言い切る者だが、それでも原作のリツ子の台詞にはもの凄く説得力を感じる。


しかしながら、映画のエンディングのリツ子の台詞だと「神様」の扱いは軽く 何が(誰が)神様なのかがともすればボケちゃってる。


結局、この「セイジ」という物語が描こうとしたものって何だろう?と考えた時、一般的とは言えないセイジという人物から 短い間とはいえ「タビビト」は人生観にいろんな影響を受け その集大成が目の前で「事件」を目撃した事。


それがその後の「タビビト」にどういう影響を与えたのかは映画も原作も明確には描いていないが、それは読者が「タビビト」の視点を通して疑似体験し それぞれが何かを考えさせられるところにこそ この原作の最大の魅力だと思うのね


娘夫婦を惨殺され、孫娘の左手首から先も切り落とされ ゲン爺は神の存在を否定して、それまでに持山の各所に祀った仏像を全て壊し、全く神を信じなくなった。


それに対して孫娘であるリツ子には、ラストであの時のセイジの行動がリツ子にとって神様に映った


そこに残酷な中にも一縷の望みの様な光が差した様な奇跡をタビビトも目撃したんだ…って話と解釈したら 映画の様にタビビトは逃げちゃいけないでしょ?


…というわけで この映画「セイジ」はここまで考察させられるぐらいにとても興味深い作品ではあるが、映画の内容的にはクソ


役者達は皆、とてもいい演技をしており たぶんそれは監督の要求以上のものだと察する。


従って、クソの要因は監督であり脚本にも参加している伊勢谷のアホ構成に尽きる。


重ねて言うが、


「視聴率に左右されて脚本が変わることが(映像に関わる人間として)飲み込めない」


という発言には深く賛同する。


が、「伊勢谷友介」がそんな発言を出来る程の役者とは私は感じておらず、原作通りになぞった映像化をしろとまでは言わないが、原作の趣旨を読み違えた映像化する者の発言としては片腹痛い。


まるで芸術家を気取ったアホが小賢しげに語る能書きの様で気持ちが悪いんだな


最後に…


私は喫茶「職安」で タビビトがセイジから受けた影響みたいな経験を沢山、常連さんから受けたが そこにはいろんな出来事があって、中には惨い事や失望する様な出来事もあったけど その後、自分が成長するにつけて懐かしむと言うより、大人になったからこそ判る様になった事柄の検証みたいな気分で喫茶「職安」で出会った人達と その後も交流してきた


ゆえに、映画で描かれた「タビビト」のその後は それなりの会社で、それなりに出世し、結婚もしているようだけど、「そして僕は逃げる様に現実に戻った」奴にはセイジの行動の意味がちゃんと伝わっているとは思えず、そもそもそんな奴にセイジの事を語る資格は無いだろ?ぐらいの違和感を抱くから 上述した様な感想になっちゃったんだな。

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 気が向いたら…で結構です。^^;

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『喫茶「職安」の話』関連の記事

コメント

ブタネコさん、こんにちは^^

 ドキドキしながら感想を読ませていただきました。
予想通りの辛口のご意見で・・・、しかし、クソ映画と思ってもここまで考察していただいて、とてもうれしいです。
 読ませていただきながら、私の中でも映画に対して、もやっとしたものがあったようで、それが何なのかを確かめるべく(なにしろ映画館で観てから時間も立っているので)、今回これを機に原作を読み直して、映画を観てみました。

 私は小説や漫画が映画化・ドラマ化されるときには、映像作品を観てから、原作を読むようにしています。
映像化されたとき、がっかりしないための自分なりの予防策としてそうしています。
もっとも最近は、すでに読んだ作品が映画化されることが増えたので、なかなかそうもいきません。

 ブタネコさんが常々書かれている設定やラストシーンの改変についても、作者の容認の範囲なのだろうとあまり気にせず、それぞれの作品としてとらえられる性質なのですが、ブタネコさんのご意見を読んでいるとなるほどなあと思うことも多くあります。

 この映画に関しては、映画を見終えて原作を読んだ当時は、原作を受け入れがたかったのですが若干の違和感はありました。

それは、セイジの佇まいです。
私は西島秀俊が主演なので、この映画を観たものですから、どうしても着眼点がそこになってしまいます。

 映画の中でセイジは、ほとんど喋らず表情も動かず"ただそこにいる"だけです。
ただし、リツ子と戯れ遊ぶ時だけ、タビビトが思わず凝視してしまうくらいに満面の笑顔で楽しそうにはし ゃいでいます。
 時々で見せるセイジの行動(イノシシの件)、言葉(動物愛護団体の人間との会話)が、私の観たいセイジの言動だったので、余計にそのギャップがなんだかとても不自然に感じたんです。

映画を観終わって原作を読むと、セイジはどうやら常連の人たちとは気さくに話しているし、カラオケに行って歌も歌うし、自分のいいと思う音楽を選んでカセットテープも作っている。
それを読んで、"ああ、やっぱりね"と思ったんです。
原作を読むことで、映画で不足していたセイジの人間としての温かみを感じたんでしょう。

 伊勢谷監督は、原作の中でセイジが神格化されているのがとても嫌だったから、人間として描きたかったというようなことをインタビューで答えていました。

それが刷り込まれていたせいなのでしょうか、私は映画を見終えて原作を読むことで、セイジというキャラクターの足りない部分を足して、この映画を受け入れたのかもしれません。
(というより、普段からそういう見方をしているんだろうなあと今回気が付きました。)

 ブタネコさんのご指摘のラストシーンについて、その伊勢谷監督のこだわりがグサリと刺されているなあと感じましたし、私も見直してから、監督の描き方のほうがよほど、セイジを神格化してしまっていると思いました。
 20年という年月は、伊勢谷監督が考える「セイジがリツ子の中で"どこか現実感のない神様"に変化するまでの時間」なのかなと思いました。
 
 それから、映画のタビビトはどこかちょっとずるくて人が悪いですね。
 動物愛護団体の職員との会話のきっかけは、映画の中ではタビビトでしたが、彼はとても中途半端に受け答えしてしまった。
結果的にセイジはその尻拭いをしたような印象です。
 セイジの大切なものを勝手に取り出して壊しても、セイジが何も言わないことで許されたかどうかよくわからない。
 リツ子のところにわざと連れて行って、想像を絶することが起きてしまった。

 あの後、タビビトはまともにセイジの顔を見れなかったのかもしれませんね。逃げ帰ってもしょうがない人間とも思えます。
 だから私も見直してみて、なぜ今頃タビビトはリツ子に会いに行ったりなんかしたんだろうと思いました。

 見直して最も強く感じたことは、映画ではタビビトとセイジ、その他の常連客達の戯れが描かれていないことで、ただセイジの取った行動だけが印象的な物語になってしまっているということでした。
 映画館で観たとき、セイジの最後の表情が目の裏に焼き付いて、リツ子ではないですが、神様を観た気分になりました。
それって、伊勢谷監督の目論見と逆の結果ではないのかなとふと思いました。

 今回見直してみて、あまりにもセイジがさびしい人として描かれていて、悲しくなりました。
出来れば、原作の中で描かれるセイジと登場人物たちの姿を映画で観たかったなと思いもしました。
ちなみに、今回読み直してみて原作は、このあと、リツ子とタビビトが「House 475」の常連たちのその後を語り合うのだろうなと何となく思えて、心が温かくなりました^^

 映画やドラマというのは、どうしても出演している俳優や監督のファンが観て感想を書くことが多いので、私のようにどこかピントをぼかして好意的に書かれている感想ばかり読んでしまうことになります。
そんなわけで、ブタネコさんの感想はとても新鮮で、この作品を別の視点から楽しめる機会になって、非常に楽しい時間を過ごせました^^
(またもや長文、申し訳ないです^^;)

★ slan さん


クソ映画と罵りましたが、いろいろと考えさせられる興味深い映画で DVDの料金分楽しめたという意味では 他のクソとは全く意味が違いますね。

いつも記している事ですが原作のまんまなぞる様に映像化しなきゃダメなんて思ってはいないかわりに、文章と違って映像は情報量が多い分 それ以上に面白くなってなきゃ意味が無いだろ…ってのが持論でして 原作を超えられない映画なんて ただの便乗商品でしか無く、それだけに制作者が芸術家みたいな発言をしてると腹が立つんです


>それは、セイジの佇まいです。


良い視点だと思います。


>リツ子と戯れ遊ぶ時だけ、タビビトが思わず凝視してしまうくらいに満面の笑顔で楽しそうにはしゃいでいます。


思うに、「何故、セイジはリツ子の為に あんな事までしたのか?」という部分の制作者なりの肉付けのひとつなんでしょうね


>伊勢谷監督は、原作の中でセイジが神格化されているのがとても嫌だったから、人間として描きたかったというようなことをインタビューで答えていました。


ふざけるな!と言いたいですね。^^

だったら、リツ子がラストで言う「神」とは何なんでしょう?

そこを取り違えて映画化するなんて 何の意味も無いでしょうに


>映画のタビビトはどこかちょっとずるくて人が悪いですね。

(中略)

>あの後、タビビトはまともにセイジの顔を見れなかったのかもしれませんね。逃げ帰ってもしょうがない人間とも思えます。


映画だけを見たならば そういう感想になってもおかしくないと思います。

だからこそ、


>なぜ今頃タビビトはリツ子に会いに行ったりなんかしたんだろうと思いました。


と、感じると同時に リツ子はタビビトに企画書を送ったり、再会した後和やかに会話をしているのか? それが私の違和感のいくつかでもありました。


>そんなわけで、ブタネコさんの感想はとても新鮮で、この作品を別の視点から楽しめる機会になって、非常に楽しい時間を過ごせました^^


大抵の場合、「この上から目線野郎」とお叱りを頂戴しておりますので そのように仰られると恐縮です。^^;


が、お楽しみ頂けた様で嬉しいです。


【※注意!!】

この記事は『ブタネコのトラウマ』の倉庫に保管されている記事なのでコメントの投稿は出来ません。 2015年2月10日以降 このクソブログは『ブタネコのトラウマ・リニューアル版』に移転しましたので新規記事更新及び、過去記事へのコメントの受付もそちらで行っておりますので お手数ですが、そちらへの移動をお願い申し上げます。