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2012年07月27日

● 悪魔の手毬唄 はぎわらさんへの返信


先日、『悪魔の手毬唄 再考』という記事に頂戴した「はぎわらさん」のコメントへの返信を記していたら長くなったので記事として掲示させて頂く。




「悪魔の手毬唄(古谷版) 再見」(2012年07月18日)をきっかけに「悪魔の手毬唄」関連記事をひととおり拝読しました。図書館からの借り出しというかたちですが、さっそく『悪魔の手毬唄』の原作を入手し、一気に読了しました。
僕にとって初めての横溝作品鑑賞でした。
文庫本で480ページの本作に熱中し、時間が過ぎるのを忘れてしまいました。
ただ、せっかくの横溝作品鑑賞を「本陣殺人事件」→「獄門島」→「悪魔の手毬唄」というブタネコさんのお薦めの順番で始めることをせず、すみません。


横溝文学の愛読者の一人としてクソブログに記事を掲示している者として とても、ありがたいコメントに喜んでおります。


このクソブログにおけるたいていの記事は何かの映画やドラマに文句ばかり記していると一般的に思われがちで それを私自身も否定するつもりはありません。


が、良い機会なのでひとつ言わせて頂くと 特に「横溝文学」に関しては小賢しいインテリぶった連中が「純文学」とか「日本文学」とか言って崇めているようなものよりも はるかに古き良き時代の日本文学だと私は感じており、願わくば もっと多くの人が原作に目を通される事を願ってやまず、こんなクソブログの記事でも それがキッカケで一人でも読む人が増える事に繋がれば それはささやかながら、これまでの私の人生において少なからず楽しませて頂いた故・横溝正史先生への恩返しにならないかな…なんて勝手に思い込んでるので 今回の「はぎわらさん」様な方の登場は私にとっての喜び以外他ありません。


「本陣殺人事件」→「獄門島」→「悪魔の手毬唄」という順番はあくまでも私の勝手なお薦めであり、「悪魔の手毬唄」を先に読んだからといって他の作品の面白さが失われるわけではありませんし、むしろ「悪魔の手毬唄」が気に入ったのであれば尚更読まれる事を強くお薦めするだけです。


本作を読み終えて、「里子」という人物が一番印象に残りました。
金田一の、いかに現実の観察に根拠をおいた緻密なものであるとはいえ、やはり推測にすぎない次の発言のうちにえがかれた里子の心の動き。
「(略)つまり自分が醜く生まれつき、しかもそれを気にしすぎる。その結果母がうつくしい泰子にたいして憎悪をもつにいたったのではないか。それだったらじぶんはもう醜さを気にしないことにしよう。じぶんは醜くとも幸福であるから、お母さんも不心得を起こさないでください。……と、いうのが哀れな里子のせめてもの抵抗だったんじゃないでしょうか」(角川文庫(1996年改版初版)、p.434)
さらに、《身代わりになる》という行為にいたる里子の心の動き。
すさまじい心情の持ち主を作品に登場させるものだと感服しました。


私も他の記事で記している通り、「悪魔の手毬唄」における「里子」という存在は 原作をあっさりと読んだだけではそれほど重要性を感じなかった方も多いでしょうが、読み込むと「里子」の描写こそこの本における横溝文学の描写の奥深さが滲むと感じています。


で、後述の為に ひとつ指摘させて頂くと


『つまり自分が醜く生まれつき、しかもそれを気にしすぎる。その結果母がうつくしい泰子にたいして憎悪をもつにいたったのではないか』


という部分に関して「はぎわらさん」も気付いておられる様ですが ここはあくまでも金田一耕助の推察であり、憶測なのかもしれない…という点です。


で、この金田一の推察を「はぎわらさん」は説得力のあるものと受け止められていますよね? そう、私も同感なんです。


作品の末尾の「失礼しました。警部さん、あなたはリカを愛していらしたんですね」(同上、p.480)には、おもわず、ハッとさせられました。ここにくるまで、警部のこの恋情には僕はまったく思いをはせることができなかったからです。が、この金田一のセリフをみたあとに、すこしページを繰り直してみたら、作品の最初のほうにつぎの一節がありました。
「なんだか面白そうな話ですね」
 (略)
「ええ、はあ、ちょっとな」
と、磯川警部はなぜかはにかみを感じるらしく、子供がものねだりをするような眼つきになって、
「聞いてくれますか」(同上、p.18-19)
さらに、ゆかり御殿の焼け跡での警部と金田一の会話(同上、pp.416-417)、リカが沼から引き上げられ、リカの顔の泥が拭き取られた場面を夢にみてうなされる警部の描写(同上、p.428)など、彼の思いをうかがわせるものがあちこちにあることに気付きました。
こうした箇所には磯川警部の思いにくわえて、金田一と磯川警部のあいだの「情」というものも丁寧に描き出されてて、本作は殺人事件とその犯人の推理をえがくだけの作品ではないことを感じました。


この磯川警部のエピソードも 実は「里子」の記述同様、原作をあっさりとしか読まなかった方にはたいして目にも留まらないエピソードなんだそうですが、逆に ここを読み留めた人達には この「悪魔の手毬唄」は「はぎわらさん」も言われる通り「殺人事件の探偵物」なんて狭いカテゴリーでは納めきれない文学作品であると受け止めた人も少なくないんです。


で、「はぎわらさん」から頂戴したコメントの最も重要な点ですが…


が、ブタネコさんのつぎの記述には原作の描写から離れすぎたものを感じました。
>放庵は「鬼首村手毬唄考」として投稿、それが雑誌に載ると自慢げに仁礼家や由良家などを初めとして 知人に見せ回る結果となったのが、
>そう考えると、そんな放庵が「鬼首村手毬唄考」を自慢げに見せびらかす姿に 殺人を起こすほど自分が苦しんだ件を呑気に扱う放庵
本作の第三部「民間承伝」(同上、pp.317-333)にえがかれた、五百子による手毬唄の披露の場面での、いあわせた人々の反応からすると、放庵は《知人に見せ回る》という行為にまではいたっておらず、「鬼の首でもとったように」喜んでその本を自慢げに見せびらかした相手は「五百子」だけだと解釈するのが妥当だと思いました。
かりに五百子以外にも放庵みずからこの本を見せた相手がいたのだとしても、その範囲は極々小さいものだったのではないでしょうか。放庵が知人に見せ回っていたのが事実だとしたら、手毬唄のとおりに構成された殺人事件が二件おこったのちにも、村のなかから手毬唄との関連を言い出す人がひとりも出てこない、というのは不自然です。
・・・という感想もいだきました。
(原作ではなく、映像化されたもののなかに《知人に見せ回る》というシーンがあるのでしたら、すみません。)


まず、映像化作品においては私の記憶をたよりに言えば「見せびらかすシーン」ってのは無いです というか、放庵じたいがあっと言う間に殺されますのでそんなに出演シーン自体が無かったはずです

で、原作の「民間承伝」の部分だけとりあえず先程読みまして この記事の私の文章表現も読み直してみて 私自身の真意と記事文中の表現の仕方には ちと拙い部分があると気付きました ごめんなさい


というわけで、説明の様な言い訳をしますと…


まず、原作中に

『一番にうちへもっておいでんさったんです』

という五百子の台詞に「一番って事は二番三番もいるだろ」と解釈した…なんて事では無く、この本の事を知っているのは「五百子」だけではなく、少なくとももう一人、「犯人」はこの本の事を知っている…と、私は考えています。


だって、そうじゃなければ犯人が「手毬唄」を元から知っていたとは考えられないでしょ?


で、その上で、犯人がこの「民間承伝」を読んだ時に初めて「手毬唄」の存在や内容を知ったと私は考えており、その内容を犯人がどう感じたか?…って事を 私は指摘したいんですよ


つまり、放庵が確信犯だったのか? それとも何も考えずただ投稿しただけだったのか?…という部分は 私にとって突き詰めて言えばどうでも良い事


肝心な点は、「手毬唄」の構成や歌詞が犯人にとって絶対に隠しておきたい秘密を暗示していると 「民間承伝」を読んだ時に犯人が感じた…そう私は解釈しており、であるがゆえに 不特定多数の目に入る雑誌(同人誌とか会誌というレベルも含めて)に「手毬唄」という格好で 仮に放庵には悪意は無かったとしても、投稿するという事は「見せびらかす」とか「言い振り廻る」のと同じじゃないか? と。


ゆえに、正確に表現するならば「言い振り廻られた」もしくは「見せびらかされた」様な気持ちに犯人には感じられたんじゃない?…ですね。


もしくは、「放庵をこのまま放っておいたら いつか、言い振り廻られたり見せびらかされるんじゃ無いか?と怯えた」って解釈もアリじゃないか?と。


で、ついでに言えば もしかしたら放庵は確信犯的にこの「手毬唄」を投稿したんじゃなかろうか?(あくまでも無邪気な悪戯感覚で)とさえ想像を膨らますと 事件の背景がもっと深くなりませんか?


原作文中(p327)で五百子は


「お庄屋さんのうろ覚えと、わたしのうろ覚えとつなぎあわせているうちに」


と語ってますが、「お庄屋さんのうろ覚え」とされている歌詞が実は放庵の確信犯的誘導だったら… 本当は「錠前屋」とか「秤屋」じゃなくて「ざる屋」とかだったのを 放庵が何気に替え歌を誘導していた…なんてね。


…そんな感じの事を述べるつもりで記したはずなんですが 今回の御指摘であらためて読み直していて私が言いたかった事をちゃんとは記していない「手抜き」だったと反省しております。 ごめんなさい。


というわけで最後に「はぎわらさん」へ…


お願いですから「獄門島」も読んでみて その上で御感想をうかがえると幸いです。


お駄賃

 気が向いたら…で結構です。^^;

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コメント

私もブタネコさんのブログを読み込むうちに横溝ワールドへ引き込まれたクチですが、読めば読むほど、深いな〜、というか、散りばめられた伏線の巧妙絶妙な記述に触れる(気づく)たび鳥肌がたちます。
特に傑作群のタイトルは、戦後の世相を知る貴重な資料という意味も込めて、日本人なら必ず読んでおくべき文学作品として成立していると思います。教科書にしてもいいくらいでは。
あと、このブログ記事の終わりの方で、「ざる屋」が出てきた時は、ニヤリとさせられました。(^-^)

★ ねこまんま@sankonki さん

ありがたいコメント とても嬉しいです。

>「ざる屋」

そう言って下さると 貴方様の横溝のめり度が推し量られ 本当に嬉しいです。


>お願いですから「獄門島」も読んでみて その上で御感想をうかがえると幸いです。


「獄門島」に関する記事のうち事情により公開を保留していた「その2」と「その3」を本日僕のブログに掲載しました。

すでに「その7」までブログに掲載してありましたが、これで僕が公開する心づもりでいた「獄門島」に関する記事を全部ブログにのせたことになります。

もし「その7」までで僕が言及していないことで「この点についてはどんな感想をいだいたのか?」ということがありましたら、教えてください。

思うことをまたブログに書きたいと思います。

★ はぎわら さん

いや、とても勉強になりました。^^

同時に「角川書店めぇ~」と静かな怒りが増しました。

>もし「その7」までで僕が言及していないことで「この点についてはどんな感想をいだいたのか?」

しいて挙げれば「で? 面白くなかったの?」と問い詰めたいところですが 面白くなければそこまで
考察なんかしないよね…と決めつけて満足です。


>しいて挙げれば「で? 面白くなかったの?」

丁寧に人物が造形されていて、分析しがいがあり、読みごたえがあり、面白かったです。
そして、ブタネコさんにも満足していただけたようで良かったです。

★ はぎわらさん

こちらこそ楽しまれた様でなによりです。^^


【※注意!!】

この記事は『ブタネコのトラウマ』の倉庫に保管されている記事なのでコメントの投稿は出来ません。 2015年2月10日以降 このクソブログは『ブタネコのトラウマ・リニューアル版』に移転しましたので新規記事更新及び、過去記事へのコメントの受付もそちらで行っておりますので お手数ですが、そちらへの移動をお願い申し上げます。