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2012年04月07日

● ブラックボード 第三夜


三夜連続SPドラマ「ブラックボード~時代と戦った教師たち~ 第三夜」の録画を見た。




ブラックボード


終戦から数年後の第一夜、それから30年程過ぎた1980年代の第二夜、そしてさらに30数年経った第三夜…という三部構成だったわけだ


で、まず、第三夜の個人的感想を述べると ネットが氾濫したり、「公平」という解釈の基に考え対応する教師達など いわゆる今の学校にはこんな感じのトラブルが潜んでいる…という事なのか ネットにでっち上げで晒し者にされて…というのは 教室の中の状況は私には判らないけど、時に調子に乗って好き勝手を語るこんなブログをやってると いわれもない中傷を受ける事など日常茶飯事なので たぶん、打たれ弱い人の気持ちなど私には判らないんだろうと思う


けどね、そんな感覚ズレした私だからこそ たぶん違った視点で物事を考え、「なんだかなぁ」という思いを抱く事も多いわけで…


例えば、今風の人達って 本人に面と向かって文句を言わない人が多く、ともすれば陰口のように「アイツ~なんだよね」と本人のいないところで非難をしたり、擁護したりする。


そんな人に「何故、君はそれを直接本人に言わないの?」と聞くと「だって、直接だと喧嘩になる」と平然と応える人が少なくない。


まぁ、右翼的思想の持ち主と言われる私が言うと別の議論になる可能性を踏まえて言うが、いわゆる「幻想平和主義」の典型的帰結の一つが こういう行動が普通とか一般的だと思う人を増やしちゃったんじゃないの?と。


「戦争はイケナイ」から「喧嘩はイケナイ」となり、「喧嘩にさえならなければ 何をやっても良い」… そういう風に認識が変換していってるように思えてならない


違う言い方をすれば「友達みんなと仲良くしよう」が「喧嘩していない友達」=「仲良し」みたいな感じで 私の世代間で言う「仲良し」と先述した人達の「仲良し」って言葉や表現は同じでも意味が全然違うように感じる…って事。


またちょっと視点を変えてみよう。


集団の中で物事を決める時、多くの場合が「多数決」を用いる。


例えば「ウチのクラスの文化祭の出し物は何にしますか?」「模擬喫茶」「オバケ屋敷」「社会研究」… 挙げられた物をクラスの生徒個々が選び、最終的には多数決で一つに絞り込んで決める って感じの事はよくある事だよね?


で、考えてみて欲しい事は アナタが今まで経験してきた多数決で「満場一致」になった事ってどれくらいありますか?って事(但し、政治屋は除く)


私の経験した多数決で「満場一致」なんて殆ど無い。


つまり、私は「模擬喫茶」がやりたくても 多数決で「オバケ屋敷」に決まるという事は ある意味、「仕方の無い事」ではあっても「公平な結果」と言えるのだろうか?


要するに学校は「公平」な場であろうと心がけると称するけれども いろんな部分に矛盾が生じる場でもある。


そういう矛盾を生徒が自ら「仕方ない」と納得するのならいいけれども、多くの場合の矛盾は生徒が自ら納得する前に学校や教師から押しつけられた「仕方ない」だったりするんだな


つまり、学校って「公平な場」と言いながら「矛盾の宝庫」であり、教師はその矛盾をいかに生徒達に納得させ得るか?って事が しいては生徒と教師や学校の信頼に繋がってると思うのだ。


で、第三夜の感想に話を戻すと…


ブラックボード


教師が無意識に放った一言にプライドを傷つけられた生徒がネットに中傷をでっちあげ その結果、教師が逮捕へとつながっていく… たしかに、今の御時世ならこんな事も起き得るのであろうし、もしくは実際に起きてるのかもしれない


とかく「イジメ」や「自殺」ばかりを描いてきた学校物のドラマが多い中で こういう危険性の指摘は言い方は悪いが新鮮にも感じる


でもね、冤罪が晴れたからと言って


ブラックボード


こういうエンドに持って行かれると せっかくの新鮮さも興醒めだ。


そんなに簡単にいかないから 世の中の教師達は苦労してるんでしょ?


いくら日頃、教師嫌いを書き綴っている私でも そういう安易な帰結には実際の現実の教師達が不憫に思う。


が、そんな事はどうでもいい。


ブラックボード

ブラックボード


思いがけず「小島藤子」の出演と


ブラックボード


僅かではあるが「加藤貴子」を久しぶりに見れた事は僥倖だった。


で、最後に 第一夜から第三夜まで見通した総論的感想を述べると…


なかなか良い企画だとは思うんだけど、残念ながら第一夜と第二夜は巧く繋がっていたのに


ブラックボード

第二夜で貫地谷しほりが演じた女教師が 第三夜で倍賞美津子が演じた校長となりました…ってだけで そこに第一夜のジャニ系が演じた教師や 第二夜の佐藤浩市が演じた教師の信念みたいな繋がりは全く続いていない構成・設定は残念以外の何物でも無い。


あくまでも個人論だが、例えば 第一夜のジャニ系が演じた教師の世代が 第二夜の佐藤浩市が演じた教師の恩師にあたる様に、第二夜の佐藤浩市が演じた教師が第三夜の倍賞美津子が演じた教師の恩師的位置に描き それが第三夜の松下奈緒の恩師的存在へと繋がっていく様な流れならスッキリ流れを受け止められるのに…と感じた事が まず第一。


第二に、第二夜で描かれた主人公も含めた教師達が学生だった時に教師として指導したのが 第一夜の教師達だよね?


同じように、第三夜の教師達の教師って第二夜では生徒だった世代と考えると、第一夜の教師達が自分の生徒の将来に どういう大人に育って欲しいと願っていたのか? それと、実際にその生徒達が育って教師達になった第二夜で描かれた世代は そんな理想を実現してるの? それとも大きくズレてないか?


つまり、現代社会における教師や その生徒の両親の世代を教えた教師達の理想と結果のズレを試しに総括してみて欲しいのだ。


同じように、戦後の教師達が教えた生徒が親や教師になった姿と その世代を教えた戦後の教師達が抱いていた将来への理想と結果のズレも試しに総括してみて欲しいのだ。


例えば、昨今 給食費を払わずとも平然としている親がいたり、モンスターペアレンツと称される自分勝手な親が生徒の時代 その頃の教師達やモンスターペアレンツ達の親の世代はどんな教育や躾をされるのが普通だったのか? その「普通」とされていた事に色々と問題は潜んでいなかったのか? そういう検証があまり耳目にされないのは何故?


そう私は問うてみたいのだ。


もちろん私だって立派な親とはほど遠いし、学生の頃はロクなもんじゃなかったから


「オマエに言われたくない」


と、私に言いたい人も多々いるだろうけど あえて言わせて貰う次第。


なんかそういう肝心な事を総括や検証せずに「時代が…」の一言で誤魔化すのは駄目だと思うんだな


要するに私は そういう部分を刺激してくれる三夜連続ドラマであって欲しいと勝手に期待していたから、三夜目のラストは


「結局、とってつけたハッピーエンドかよ」


と、ガッカリしたって事だ。


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