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2009年12月26日

● ブタネコ的「北の国から」の考察(その7)


今回も「北の国から 92巣立ち」についてもう少し語ってみようと思う。




で、今回は ちょいと趣向を変えて 前回の記事における『「菅原文太」による「誠意って何かね?」のシーン』について yahさんから頂戴したコメントに私なりのレスを述べてみたいな…と。


このシーン、難しいですよねぇ・・・・


このとき、五郎がどういった“誠意”を持って文太の所にやってきていれば、文太は満足したのか?
未だにそれがわかりません。

あるいは、どんな誠意を持ってしても、この時の怒りは収まらなかったのだろうとも考えます。

でもこの時、五郎ができる精一杯のことがこれだったわけで、金などあろうはずもない。

大金を積むことが“誠意”だとしたら、金のない人間は誠意を見せることもできないし、逆に大金持ちは気持ちはなくとも“誠意”を見せることができる・・・

僕は金のない側の人間なので、「結局解決策は金か」と思うと切なくなってしまいます・・・。 それが世の中の正義かのかもしれませんが。

ブタネコさんは、文太が言うところの「誠意」とは、具体的にどれくらいのもの(金?)だったと思いますか?


この時に文太が納得した「誠意」が何か? 私にも判りません。


というか、前回の記事で私が述べたかった事は こういう文太の様なケースに限らず、「誠意」ってのは受け取る側の勝手であって他人が事前に把握する事は難しい…という事。


第三者的には「彼なりの精一杯の誠意」と仮に感じられたとしても 受取る側がそう感じなければ全く無意味ですらあるんだよね


ただ、このシーンの場合


北の国から北の国から

豆腐屋を訪れた五郎は まず、持参したカボチャを差し出した。


この点に私は留意する。


もし、私が文太(豆腐屋)だったならば その時に、その持ってきたカボチャが割れるほど、カボチャで五郎を殴っただろう。


詫びに来た手土産が「カボチャ」 これは意表を突く攻撃であると同時に、反感を抱かれやすく、かつ反感を抱かれた時には鈍器という名の凶器へと変わる。


豆腐屋はその時


北の国から

大きな包丁を持っていたから鈍器は不要だったわけだが。^^;


でね、もし仮に五郎が大金持ちだったとして カボチャではなく札束を積み上げたならば豆腐屋はそれで納得したのか? 否である。


『大金持ちは気持ちはなくとも“誠意”を見せることができる・・・』


それは違う。


「金出しゃ済むって話じゃ無いだろ」


心の中では「出さない奴よりはマシだけど」とか思っていつつも 多くの人はそう言うのだ。


何をやっても誠意とは直ぐには認めて貰えない… それが”誠意”だったりするのではなかろうか?。


そう、まずは「滅茶苦茶に怒られる事」 それが”誠意”なんじゃないのか?なんて思ったりする。


北の国から北の国から

北の国から北の国から

北の国から北の国から

北の国から北の国から

北の国から北の国から

北の国から北の国から

北の国から北の国から

北の国から北の国から

北の国から北の国から

北の国から北の国から

北の国から北の国から

北の国から


結局、五郎は 自分が家を建てる為に買って、自らが皮を剥きあげた丸太を売る事で現金(100万)をつくり、おそらくは慰謝料のつもりで送金し、


北の国から

「誠意てやつさ」と自らを納得させる。


単純に預金を下ろして払うのではなく、夢を一端中座させて作った金…という事で 視聴者はそこに誠意を感じるし、単純に100万という金額に誠意を感じる人も少なく無いのかもしれない。


私は 金額がいくらだったら「誠意」なのか?なんて風には考えない。


まず、気持ちがどれだけ反省しているのか?が重要だと思うから もし私が五郎だったら相手が何についてどれぐらい怒っているのかを聞き、相手が怒りたいだけ怒られる。




で…、あくまでもこの「北の国から 92巣立ち」のケースに限って言えば タマコを純が強姦したのではなく、恋愛の延長線上…と考えれば もし、私が五郎だとすれば 急いで東京に上京したとしても まず、相手(豆腐屋)に詫びに行くのでは無く 純から事情を確認すると同時に 誰が見てもボコボコです…ってぐらいに顔中痣だらけで、身体中が打撲でうまく歩けません…ってぐらいに純を殴り倒し その状態の純を引きずって豆腐屋に行き豆腐屋の言い分を聞いた上で私なりに詫びると思うが、私は直ぐに金を出したりなどせず 豆腐屋の気の済む様に純を殴るなり、働かせるなりするように豆腐屋に頼む。

根本的な要因は 後先考えもせずに、しかも否認もせずにナニしちゃった純の過失割合が大なのだから、純がそれなりの痛みや苦しみを味合わなければ公平では無い…そう考えるからだ。


ただね、もし私が豆腐屋だったとして 五郎がボコボコにした純を引きずって現れ

「このバカをお好きな様に…」

と、差し出したら許すのか?と 問われたならば、やっぱり「否」なんだよね。


だって、私が自分でボコボコにしないと気が済まないタチだからだ。^^;


これは まさに「矛盾」である。


つまり、「誠意」の解釈には 加害者なのか被害者なのか第三者なのか? それぞれの立場で解釈が違ってしまうという事を まさに意味している「矛盾の塊」と思うのだが如何であろう?


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コメント

ブタネコさん、いつも拝見させていただいておりました。
今回、初コメントです。
誠意っておそらくですが、捨てるとか削るとか、そういうことを強いる言葉なんじゃないかなと思います。もしとりかえしのつかないことならば、コスト移動で相手の損を埋めるのではなく、相手の損と同じコスト消失で納得を得ることのように思います。

でもそれじゃもったいないから、じゃぁもらっておくわ、あなたの気持ちはけっしてムダにはしません、という合理性が発生して求めたほうも求められたほうも顔が立つというめんどうな手続きのような気がします。

こんにちは。
僕のコメントに対しこのような形で詳しくお答えいただき、ありがとうございます。

>何をやっても誠意とは直ぐには認めて貰えない

・・・まさに仰る通りかもしれませんね。
煮えくり返った怒りは、その場で何をされたとしても一瞬にしてスッキリ収まるなんてことはあり得ないですからね。

自分がどんな形で怒りを現したとしても、相手はただただ謝り続け反省の態度を示し、その上で出来る限りの“誠意”を見せ続けたなら、時間とともに収まってくるのかもしれません。


“かぼちゃ”のエピソードは普通に考えたらあり得ない行動ですよね。TVを通して見てるこちらがハラハラするくらいです。
まさにそこがこの場面の狙いなんでしょうけども。

実際、生きてく上で自分も失敗を犯すわけで、そのときどうやって誠意を見せればいいのか?悩むことが多々あります。難しい問題ですね。

★ gerrrra さん


こちらこそはじめましてコメントありがとうございます

>誠意っておそらくですが、捨てるとか削るとか、そういうことを強いる言葉なんじゃないかなと思います。

たしかに、そういう一面 用いられ方もあると思います。


★ yah さん


ですね、難しい問題です。


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