● 映画版「ジェネラル・ルージュの凱旋」
映画館に行って「ジェネラル・ルージュの凱旋」を観てきた。

前提を前もって述べておくと…
私は この映画の原作のみに限らず、原作者「海堂尊」の入手可能な著作の全てを読んでいる。
・参考記事「ジェネラル・ルージュの凱旋」
私は この原作を秀逸な本だったと個人的に高く評している。
で、前作にあたる「チ-ム・バチスタの栄光」も映画と原作 双方、既に目にしている。
でね、これまでこのブログのいくつかの記事で「チ-ム・バチスタの栄光」の映画版に関する個人的感想は述べてきたが 要約すると、
・主人公の田口(男性)を わざわざ女の竹内結子に演じさせる意味が判らない。
・原作に込められた原作者の意図が 映画には何も活かされていない。
という二点の不満を抱いている。
主人公である田口は 考えようによっては主人公の様で実はどうでもいい存在であるとも 確かに考える事は出来る。
ゆえに、それを誰が演じようとどうでもいい…という納得の仕方も出来ると言えば、出来る。
しかしながら、原作における田口という人物像には 独自の強かさがあるのだが、映像での竹内には どうでもいい感しか無い。
それと「チ-ム・バチスタの栄光」において 物語の根底には厳密な死因の解明、しいては法医学のあり方や意義に関して 原作者なりのテーゼが込められていると私は感じたのだが、映画においては 実にあっさりと流されただけ
サスペンス的な部分も ともすればおざなりに近いぐらい 実にあっさりとした演出に「う~む」と私は感じた。
けれども、原作を頭から消して ひとつのオリジナルストーリーとして映画を見た場合、中の上ぐらいの出来と映ったのも事実で なんとも言えない気分だった。
さて、映画版の「ジェネラル・ルージュの凱旋」だが…
今回もまた、実にあっさりとした演出である事は言うまでも無く 原作との相違も百歩譲れるか否か微妙なラインの上と言わざるを得ない。
その上で、あくまでも個人感を言えば
原作には無かった「殺人事件」を盛り込む意図が私には理解出来ない。
無理矢理、サスペンス仕立てにする必要性が何なのか 私はこの映画の監督を問い詰めたい。
「ジェネラル・ルージュの凱旋」の原作における秀逸な点は
・救命救急が抱える悩みへの理解を深める事。
・頭でっかちな小役人的小賢しさに対して 速水が論破する爽快さ
・花房看護師長の想い
という三点にあると私は思っている。
それらに関して この映画の監督は「救命救急が抱える悩み」の部分だけは それなりに描いてはいるが、それ以外の2点については またまたあっさりとしたものだけ。
ひとつ例を挙げれば「貫地谷しほり」が演ずる若い看護師が 花房師長に対して見せる敵意の様な表情や態度 原作を読んだ事が無くて、映画だけを見た人にどういうふうに見える(理解される)のだろう?
原作のある映画やドラマを見る場合、視聴者や観客は原作を読んでから見に行かなければならない…というのが義務なのか? 違うよね。
映画は映画だけで楽しませてくれて初めて入場料を取る資格があるんじゃなかろうか?と 私は思っている。
ゆえに、映画だけに限定して理解しようとすれば 無難と言えば聞こえは良いが 薄味で出汁すら入っていないんじゃないか?と疑う様な味噌汁を食べさせられた気分だ。
ただ、それなりとはいえ「救命救急が抱える悩み」についてだけは描かれていたおかげでラスト間際で 堺雅人が演じる速水がヘリポートで見せた表情… ここだけは素晴らしかったと認める。
が、これは監督の成果ではなく 速水役を堺雅人に演じさせたからこそ見せられた秀逸さに他ならない。
