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2009年01月10日

● 悪魔の手毬唄(稲垣版) 追記


イエローストーンさんの記事」と「めとろんさんの記事」を拝読し ふと思った事を述べてみたいと思うのだが…




以下に述べる事は、けっしてお二方に対して反論するつもりなのでは無く、私自身が今回の稲垣版に関して駄作と言い切る根拠を補足しておこうと思った…というのが この記事の主旨だという事を御理解願いたい。


数日前に「悪魔の手毬唄(稲垣版)」という記事を私は このブログに掲示した。


で、その記事を掲示して以降 頂戴したコメントの殆どが非公開希望だったので公開していないが ずいぶんといろんな方から御意見、御質問を頂戴し それらに対して個別に御対応申し上げるのも面倒臭いので この記事でまとめて御返答申し上げようとも思う。


よく、横溝小説を読んだ人が「怖かった」と感想を述べる事があり それを称して「おどろおどろしい」という表現が用いられるのだが、原作小説で受ける「怖さ」って何かを考えて欲しい。


例えば、この「悪魔の手毬唄」では「枡で量って漏斗で飲んで…」や「大判小判を秤にかけて」という見立ての部分や「峠のおりん」というシーンが「怖い場面」だと多くの人は言うけれども それって映像による視覚的効果で怖いのであって 原作における怖さはそこじゃない。


穿った言い方をすれば 映画やTVドラマとして映像化する際に、殆どの制作者達が 横溝正史の「おどろどろしい」を そういう視覚的部分だけしか表現していないんだよね。


特に「峠のおりん」は まだ事件が何も起きていない時期に金田一耕助は私用があって鬼首村から総社まで出かける途中 峠を何気なく歩いていたらババァと擦れ違った… 言ってみればただそれだけの場面なのであって、そこで擦れ違った金田一耕助は 擦れ違った時には何の恐怖も感じていない。


その場面が本当の意味で「怖い」となるのは「実はそのババァが…」と ある程度、事件が進んでから その場面を思い出した時にゾーッとする… そういう「怖さ」なのだ。


「見立て」の部分も厳密に言えば 意図的に装飾された死体を見た瞬間の怖さというのもあるけれど、真の意味での「おどろおどろしい」部分とは「何故、死体を粉飾したのか?」の理由であり、原因にある。


ゆえに、私は横溝フリークではあるけれども「原作通りに”視覚的な部分”を映像化しないからクソ」とは 今までどの映像作品対しても述べた事は無いつもりだし、むしろ 横溝作品の要は”視覚的な部分”ではなく”心理的な部分”なのであり、そこを押さえているか否かが 私が映像化した制作者に問いたい「原作を読み込んでいるか否か?」なのだ。


さて、先日「悪魔の手毬唄(稲垣版)」という記事を掲示したが その中でブタネコ的に「悪魔の手毬唄」という小説の最大の素晴らしい点は


    「青池里子は何故死んだのか?」という点

     それと「磯川警部の想い」


だと述べた。


簡単に言えば、その二つの柱とも言うべき部分を 今回の稲垣版は蔑ろにしている事が 私には許せない…という主旨だった。


でね、この他にも「挙げたらキリがない」文句がいくつもある…とも述べたけど、その中から少しだけ取り出すと、例えば、「何故、お庄屋さんは殺されたのか?」


稲垣版では「三人娘を殺す前に まず、おしゃべりなお庄屋さんの口を封じようと」という理由だけになっている。


でもね、お庄屋さんを殺す動機には「総ての犯行をお庄屋さんになすりつける」という目的が より大きな理由としてあり、であるが故に後の「見立て殺人」が実行された理由の補完ともなる。


つまり、「総ての犯行をお庄屋さんになすりつける」という目的が省かれるのであれば、「何故、見立て殺人を行ったのか?」という理由に関して それなりに説得力のある肉付けがなされなければ「枡で量って漏斗で飲んで…」や「大判小判を秤にかけて」と見立てる意味が無くなってしまう事となり、稲垣版では考慮していない事を残念ながら逆に裏付けてしまう事になる。


つまり、


「何故、”おりん”という老婆が登場する必要があったのか?」


「何故、峠で”おりん”は金田一耕助と擦れ違ったのか?」


といった事も「総ての犯行をお庄屋さんになすりつける」という部分に帰結している事を忘れてはいけないし、無視されては困る。


ゆえに、稲垣版「悪魔の手毬唄」は「三人の女の子と庄屋が 手毬唄の歌詞の通りに殺されました」という部分だけを視覚的に映像化しただけで 内面部分を大根女優の自分に酔った様な演技でしか表現出来ていないバッタモノでしか無い…と私は言い切る。


これがね、最近の東野圭吾とか かつての赤川次郎みたいに、TVドラマ御用達…みたいな物書きが書いた本の映像化だったら「どうぞ御勝手に」と鼻で笑ってやるけれども、我が敬愛する横溝正史先生の金田一シリーズとあらば看過するわけにはいかないんだな。


ましてや、こんなバッタモノを見て 今まで横溝作品を知らなかった人が見たつもりになられては横溝ファンとしては黙っているわけにはいかない。


が、物事は何が良い結果に繋がるかは判らないわけで もし、このバッタモノがキッカケで 原作に興味を抱いて読もうとする人が現れるならば それはそれで良しとしたい…とは思っているけどね。


イラスト


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『稲垣版金田一』関連の記事

コメント

ブタネコさん、こんばんは。

私は自身の記事やこちらでのコメントでも述べたように稲垣版をきちんと集中して見ることができなかったので、うっかりしてましたが、そうでしたか、そうでしたね。
放庵に罪をきせるということを描いていませんでしたね、そういえば・・・。

やはり残念な仕上がりということを決定的にしてますね。

私も以前、めとろんさんの記事で知った“原作にオカルト的なおどろおどろしさはない、文体でそう幻惑している。”という旨の市川監督の言葉を自身の記事で何度も記述していますが、私のそう感じます。
オカルト的な幻惑に隠された見えない力。
私はそこに一番の恐ろしさをいつも感じます。
そして、市川版は全てを、その怨念や執念に転じるみえない力の根源が愛にあることにさらに恐怖を感じ、そして哀しみを感じます。
やはり原作、そして原作を知り尽くしている市川版は深いですよね。

それを仰るとおり、視覚的効果だけでおどろおどろしさを表現することはバッタモノですね。

では、また。

★ イエローストーン さん

どうせなら長編を無理に映像化せずに、短編を肉付け(出来るモノならね)すりゃ良いのにね。

遅ればせながら参上仕りました、めとろんです。

ブタネコ様の仰ることに全く異存なしです。正直、観た後の落胆は言い尽くせません。

そこでふと思うに、この作品は他の横溝先生の諸作品より、著しく陰惨かつ哀しい事件だと。
夫殺し、近親相姦、そして実の子殺し…。実の親が殺人者と知る子、何人もの娘と姦通する夫に慄く妻、殺人者の娘と蔑まれる親子、そして長年信じ愛した女性が犯人と知る刑事…諸々。
もう、その一人ひとりの心情を想像しようにもし切れず、励まそうにも言葉もない…。そんな事件だったのですね。そこで重要なのは金田一耕助の"眼差し"(=視聴者の眼差し)であり、その"抗いようのない哀しみ"を忸怩として受けとめる"だけ"に過ぎなくても、その営みを温かく見つめる…そんな視線に我々が同化できるからこそ、この物語に寄り添うことができるのではないか…。
彼と磯川警部の"友情"という、この哀しい物語全体に流れる通低音を掻き消し、「事件を面白がる」ばかりの稲垣金田一を配したこのドラマは、"天使の視点"を欠いたが故に、ひじょうに残酷で救いのない作品になっているのではないか…そんな気がしてきました。
本来、"お正月に家族で楽しむエンタテイメント"になり得ない内容なんですよね。
現代の世相を反映したように利己的な犯人の設定、そしてあくまで軽薄な金田一…辛かったですね。
ブタネコ様、イエローストーン様の深い考察を読むにつけ、様々な思いが浮かんできます。
大変に勉強になりました。ありがとうございました!

★ めとろん さん

めとろんさんのブログの記事を拝読させて頂いた時に めとろんさんはずいぶん優しいなぁ…と思いました。^^

これは、けっして嫌味とか皮肉とかではありません。

私は もう優しい気持ちになる事は出来ませんでした。

原作は探偵小説なのに泣ける傑作であり、川端康成や谷崎潤一郎なんかよりも上質の文学であるにも関わらず、この映像は全く泣けないんだもん。

【※注意!!】

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