● 39 刑法第三十九条
1999年公開の映画「39 刑法第三十九条」が数日前に深夜TVで放送されているのを見た。

考えてみれば、この映画について 既にこのブログで語ったつもりになっていたのだが、語り忘れていた。^^;

俳優「堤真一」にとって この映画はエポックメイキングと言える。
それほど、この映画の中で見せた堤真一の演技は凄まじかった。
しかしながら、実は 私は堤真一の演技は素晴らしいと認めつつも この映画総体はクソ映画だと感じている。
【注:以下の文章には多くのネタバレが含まれます。】
この映画のタイトル「刑法第三十九条」とは「犯罪の不成立及び刑の減免」に関わる条項のひとつで、「心神喪失者の行為は、罰しない」「心神耗弱者の行為は、その刑を減軽する」というもの。
ある殺人事件の被疑者(堤真一)は 精神鑑定の権威(杉村直樹)により人格障害による心神喪失と裁判において鑑定するが、助手(鈴木京香)は詐病(ウソ)だと判断して独自に調べていくうちに被疑者の過去に深い出来事が判っていく…というストーリー
この映画を絶賛する人は多い。
その絶賛の理由を聞くと 被疑者が心神喪失者を装おうという難しい演技を堤真一が見事にこなした事により、その意外性が面白かったのだと殆どの人が言う。
で、「何故? 心神喪失者を装ったのか?」と重ねて聞くと「罪をのがれる(軽くする)為」だと その殆どの人は答える。
けどね、私は、この映画の制作者は そんな単純な理由を描きたかったとは思っていない。
被疑者は妹を殺された過去を持っており、妹を殺した犯人は「未成年である事」と「心神喪失者」であるという二つの理由で殺人の罪を免れた…
つまり、妹を殺した犯人も憎いが 「心神喪失者」であるという理由で罪から免れられる…という社会に対する憎しみも併せ持っていた と、したかったんじゃないのか?と思っている。
にも関わらず、多くの観客はそこに気づけていない。
だから、駄作だ…というのが 簡単に言えば私の感想なのだ。
この「39 刑法第三十九条」という映画には 二つの大きな特徴がある。
ひとつは、ハンディカメラを多用し 故意にカメラを揺らしたり、ピントをボケた画面から合わせたり… これと似た手法はスピルバーグによる「プライベートライアン」が有名だが、「プライベートライアン」では戦場にいる一人の兵士の視点を表現する為にその手法を用い成功したのだが、この「39 刑法第三十九条」では 誰の視点か判らず、ただ見苦しいだけだ。
ふたつめの特徴としては 杉村直樹、鈴木京香、江守徹… 主要な登場人物が 皆、挙動がおかしい。
それは 世の中にはおかしな人間ばかりなんだ…という比喩なのか?と思いつつも なぜ、そんな演出なのか観客には伝わっていない。
あくまでも私の勝手な想像なのだが…
この映画の数年前に公開された洋画で「真実の行方(主演:リチャード・ギア)」という映画があった。
大司教が、数十ヶ所を刺されて殺害された猟奇事件の犯人(エドワード・ノートン)と その弁護士(リチャード・ギア)という設定で 犯人が心神喪失という理由で無罪を勝ち取るが実は…というもの
この映画の中で被告人を演じたエドワード・ノートンの演技は凄まじく ゆえに、ラストのドンデン返しで観客は見事にひっくり返り、賞賛の声が高かった。
しかしながら、映画通と言われる連中から エドワード・ノートンの演技は確かに高く評価されつつも ストーリーの設定自体が、犯人が計画的に心神喪失を演ずる動機が薄く、それによって犯人が得られるメリットに説得力が無いと酷評されたものだ。
で、私は 森田芳光という この「39 刑法第三十九条」の監督は もしかしたら単純に「真実の行方」を俺ならこう撮る…みたいな気持ちで制作したんじゃないのか?なんて思うのだ。
だから、「何故、心身喪失を演ずるのか?」という動機の部分が肉厚されているんだろうとも。
でもね、肝心の
・「心神喪失者」であるという理由で罪から免れられる…という社会に対する憎しみ
そこが観客に理解されなければ どんなに肉厚でもただのデブって事と変わらない。
だから、私は この映画は駄作だと思っている。



