● 振り返れば奴がいる DVD再見(その2)
前回の(その1)とは 別の点について語ってみようと思う。
「振り返れば奴がいる」は傑作だと私は思っている。
けれども、脚本を担当した「三谷幸喜」は この作品において自分が当初書いた脚本が 現場で勝手に変えられて撮影された事に相当腹を立てたそうで、その時の気持ちが『ラジオの時間』の脚本に繋がっている…という話を聞いた時は複雑な思いがした。^^;
たしかに考えてみると 三谷の作品群の中で この「振り返れば奴がいる」だけコメディとは縁遠いシリアスで際立ってもいるから不思議に感じてもいたのだが、それが理由かと考えると成程と思う。
で、三谷のエッセイやフリートークによると 三谷は「アテ書き」(先に役者を決めてから、その役者をイメージしながら台本を書くこと)を多用する…と聞く。
かつて、私が大好きだった頃の倉本聰も「アテ書き」を多用した脚本家だったが、この二人に限らず、魅力的で記憶に残る映画やドラマの脚本家の その腕の見せ所が この「アテ書き」の部分にあり、それによってオリジナリティや斬新さが際立つのだと思う。
例えば、それまでそんなに注目されて無かった役者が あるドラマに出演し、そこで得たハマリ役によってブレイクする…というのは よくある話。
そして、そのハマリ役でのキャラクターを 次の出演ドラマ、またその次の出演ドラマ…と使い回し、気づけばワンパターン役者として飽きられる…ってのも よくある話。
基本的に、優秀な役者は いろんな役柄が演じられる幅を持っているものと私は思うわけで、それを どれだけ引き出し、ドラマのクォリティを上げるかが 演出や脚本であると私は信じている。
ところが、最近のドラマや映画は 人気が既に上がっている漫画や小説を原作に…と、タイアップや視聴率への安全度ばかりを重視し、本来 原作で構築されている主人公のキャラクターは無視して 主役を演ずる役者のワンパターン・キャラへと物語全体を「アテ書き」し 結果的に全体が崩壊するパターンに陥っているものが 少なく無い。
具体的に言えば…
「石黒賢」=「頑固」
「西村雅彦」=「何を考えているか判らない奴」
「中村あずさ」=「一癖ある女」
「鹿賀丈史」=「食えない奴」…
今の彼らには そんな感じの個々に対するイメージが固定化している感が強いが、それらのイメージは このドラマで培われたと言っても 私は過言では無いと思っているのだが、ここで強調しておきたいのは では?、それまでの「石黒賢」や「西村雅彦」や「鹿賀丈史」の役柄イメージは?と言えば 「石黒賢」は誠実な青年、「西村雅彦」はそれまで殆ど無名、「鹿賀丈史」は劇団四季出身である事と某・国営放送の出演が殆どだった事もあって固い役柄のイメージが強かった。
それを、三谷幸喜は悉く塗り替えてしまったところに 彼の凄さを私は感じるのだ。
真の意味での脚本家とは 小説や漫画の様な原作を頼らず、オリジナルでキッチリと説得力のあるストーリーを構築出来る人物であり、仮に 他の何かの作品のオマージュを用いたとしても それは元になる作品に対してきちんとした解釈や愛情を持ったものでなくてはならず、話題作りや数字稼ぎだけにアイテムとして利用するだけでは 単なるプロデューサーの御用聞きでしか無い。
特に、「アテ書き」という部分で どれだけ役者のポテンシャルを引き出せるか? それが脚本家の力量だと私は思うから、三谷幸喜は凄いと思っている。
でね、ちょうど良い機会なので述べたいと思うのだが…

このドラマには「松下由樹」も出演している。
役柄は、自分の力量に自信が持てず、常に「石黒賢」を頼ってばかりの外科の研修医。
で、あくまでも私の記憶を頼りに述べると この「ふり返れば奴がいる」までの松下由樹は学生役ばかりで しかも、さりげない脇役が殆ど、タイトルが思い出せないのだが、ひとつだけ印象的な役柄があったが、それはまさに小悪魔の様な女の子で ハマっていたぶん、悪役のイメージが一時的に強く 一歩間違えればそんな役柄のワンパターン女優に陥る可能性すら高かった。
が、そんな彼女の役柄がガラッと変わったのは映画「波の数だけ抱きしめて」と この「ふり返れば奴がいる」からだと私は感じており、その後 本人の年齢と歳相応の様々な役柄をキッチリとこなし、今の彼女に至るのだと思う。
だからこそ、今 20代前半で将来が楽しみな若手の女優さん達が 松下由樹の様に成長していく事を願ってやまないわけで、このドラマでの松下由樹を見る度に その思いは強くなるわけで…
この三谷幸喜の様な脚本と出会い、一皮も二皮も剥けて欲しいと願うモノでもある。
