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2008年09月09日

● 医者のI(その2)


喫茶「職安」の常連さんの一人であった医者のIさんについて 続きを語ろうと思う。




Iさんは元々、軍医として太平洋戦争前に上海や満州で従軍していた経験がある。


だから、「屯田兵の御隠居」と相通じるものがあって気が合ったのであろう。


戦場での救命治療、当時の医学水準と 今の水準の違いや、当時の日本軍の医療設備の貧弱さと その代わり、今では考えられないぐらいに高かった 当時の同胞を救おうとする志の違い…


医者を志してインターンだった「二代目開業医」にIさんは 自分が見て味わってきた世界を 教えてくれたのだそうだ。


このブログの過去の記事には「二代目開業医」はロクでも無い人間としてのエピソードばかりが記述されているが、奴にも 少しは真面目な部分があり、そんな真面目さは ともすれば医師会や 医学部の同窓会では異端児扱いされる由縁でもある。^^;


さて、今回 記しておこうと思うのは そんなIさんが「二代目開業医」に遺した言葉であり、Iさんの味わったエピソードのひとつである。




ソ連と呼ばれていた国が 体制が変わってロシアとなって久しい。


最近では またグルジアでの紛争で東西冷戦構造が再燃しつつあるが、東西冷戦真っ盛りの頃は ソ連が最大の仮想敵国であり、北方の防衛重視として北海道に配備されていた自衛隊の各部隊には力が注がれていたが 現在では防衛重視は北方から西方へと変わり、同時に 北方領土問題への関心は薄れる一方だ。


何故、北方領土問題があるのか? 同時に樺太に関しては別個の扱いをされているのは何故か?


北海道では終戦時に 北方領土や樺太から避難したまま戻れずに、望郷の念を抱いた元住民が沢山いたから その辺の事情をそれなりに知っている人は少なく無い。


しかし、日本全国という視点で考えた時 殆どの日本国民は その経緯や歴史を知らず、知ろうともしておらず、さらには 共産主義や社会主義かぶれのアホによる間違った認識や 偽善的・作為的な話が流れる始末で それは北方領土に限らず、竹島にも言える事。


Iさんは 太平洋戦争が開戦して間もなく中国戦線で負傷して本国に戻され、その後 療養を兼ねて樺太の部隊の軍医として終戦まで過ごしていた。


樺太が日本領か否かについては ここで言及せずにおくが…


問題は1945年8月9日にソ連が日ソ中立条約を一方的に破棄し、9月5日に歯舞群島が占領された事。


ちなみに、現在の日本で「終戦の日」とされているのは1945年8月15日


つまり、天皇陛下の玉音放送により停戦し 武装解除へと向かった矢先に攻撃を受け、数多の人命が失われた事について ろくな検証もされず、多くの国民からは関心も示されずに60年が過ぎたのだ。


Iさんはソ連進駐後、シベリアに送られ抑留も経験している。


帰国後、樺太での知古の世話で札幌に居を構え 有志の援助を得て個人医院を開業したのだが、その時に援助をした一人が「屯田兵の御隠居」


その後、Iさんは 樺太時代に世話になった恩人の行方を尋ね ようやく恩人夫婦の行方が判った時には既に二人とも亡くなっており、遺された姉妹が施設で不遇な事を知ると 自分の養女として引き取り育てた。


そのIさんが受けた「恩」とは…


Iさんは 当時、軍需物資優先という風潮の中 軍の医療施設には薬品や治療機材があるのに、樺太の町医者にはろくな薬も届いてないのを知って 知古の町医者に内緒で横流しをした。


当時は国民が皆 貧しいながらもそれに耐えている最中だったので もちろんIさんは金銭目的に横流しをしたのでは無く、無償で「分け与えた」のである。


しかしながら、薬を手にした町医者や地元の名士達は そんなIさんに感謝をし、捕れた魚や野菜 特にその当時では高級品だったスイカなどをIさんに気持ちばかりの品だと届け Iさんは軍の医療施設で入院中だった患者達に それを食べさせていたのだが、それが駐屯地の上層部にバレ 問題化しかけた時に、身体を張って弁護してくれたのが町医者のボス的存在だった恩人夫妻だったそうで、Iさんの処分は玉音放送とソ連の侵攻とのどさくさで紛れてしまったが、当時の軍法から言えば 即・銃殺刑でもおかしくなかった世相の中、処分を送らせてもらった事でIさんが罪に問われずに終わったのだ。


Iさんが言うには…


「中国戦線で 前線で弾が飛び交う中、負傷した兵士を治療していて

 山砲や機関銃にいつ直撃されても不思議じゃ無い中を

 傷ついた同僚を担いだり、引きずって救い出して来る兵隊の姿を何度も見た。

 もちろん、自分も何度も いつ死んでも不思議じゃ無い体験を何度もした。

 助けてやりたくても化膿止めや消毒薬はなかなか補充して貰えず、

 目の前で生きながら腐って死んだ兵も見た。

 そんな前線の状況を全く知ろうとせず、後方の安全な所で 机の上や頭の中だけで

 命令だけを送ってくる司令部や その上層部に対していつも大きな疑問を抱いていた


 負傷して樺太へと転属された時、正直言って そこが前線では無い場所でホッとすると同時に

 そんな所の倉庫には 前線で必要されていながら 中々、補充が届かなかった薬品が

 沢山の箱で保管されているのを見て唖然とした。


 倉庫には そんな化膿止めや消毒薬だけじゃ無かった

 咳止めとか、風邪薬とか 前線の兵士より、民間人が最も必要とする薬品ですら沢山あった。


 当時の軍隊じゃ”風邪なんか気合いで治せ”って 風邪をひいたのがバレただけで

 上官から怒られる部隊が少なく無かったから 軍の倉庫に風邪薬があったって意味が無かったんだ

 特に、「脚気」で死ぬ人なんて 今の世の中じゃ聞いた事が無いだろ?

 でも、当時は栄養失調で 脚気で死ぬ民間人が沢山いたんだ。


 後方で安全だった部隊は それでも軍だったから最低限の飯の保障だけはあったから

 間違っても脚気になる奴はいない。


 それに対して、樺太では 脚気で動けなくなり、やがては死ぬ人が多かったから

 俺が横流ししたのは そんな薬ばかりだったんだ。」


理屈の上ではIさんが 何を言おうと 軍需物資の横流しは重罪である。


でも、それで助かった人達にとって Iさんは重罪人なのだろうか?


そして、Iさんが さらに言ったのは…


「樺太の人達は 個人的に仲が良いロスケ(ロシア人の事)は それぞれいたけれども

 ソ連という国は誰も信用していなかった。


 それでも、不可侵条約を結んでいたから 攻めてくる事は無いと安心もしきっていた。


 条約なんてのは 呆気なく破られるものだし、

 条約があるから…とか、条約をキチンと結べば…

 なんてのは幻想に囚われた理想論でしか無い。


 現実に、樺太や北方領土は攻め込まれ…

 樺太では市街戦まであって 女子供までが小銃で撃たれて死んだんだ。


 飛行機の爆撃とか、迫撃砲みたいに 精密射撃が出来ない武器で

 たまたま流れ弾みたいに当たりました…じゃ無い

 兵隊が 自分の持っている小銃で狙って中てて殺されたんだ」と。


こういう話を 私は学生の時に学校やTVで見聞する事は無かった。


だから、当時の社会党や共産党が唱える演説は理想論であり、ともすれば世迷い言の様にしか聞こえず、それは今でも変わらない。


で、話を本題に戻すと…


Iさんは元々、身寄りがいなかったのだが 恩人夫婦の遺した姉妹を養女にする事で家族を得た。


札幌に病院を構え そこで、成長し看護師となった姉妹と三人で過ごす生活はIさんにとって その人生の中で最も平穏な時間だった。


養女達は大人になり 当然、恋をして それぞれが結婚もした。


Iさんの病院の傍に部屋を借り、姉妹双方が病院に通い Iさんの食事や家事なども賄った。


だから、我々の様なバイト学生や喫茶「職安」の常連さん達は Iさんの家庭は幸せなのだとばかり思っていたのだが、先にも述べた様に Iさんが脳梗塞で倒れた瞬間に ガラッと掌を返した様な養女達の行動は物凄く意外だった。


養女達が去った後、当時インターンだった「二代目開業医」は毎日Iさんを見舞い、Iさんを医者の先輩と崇めて色々と個人的な教えを乞うていたのだが、そんなある日 初めてIさんが愚痴を漏らしたのだと言う。


「娘ってのは 結局、彼氏が出来、旦那が出来ると

 自分の父親よりも配偶者の方が大事になるのかね?


 それとも、ウチの場合は 元々、血が繋がっていないから特別なのかね?


 私がこんな身体になって 娘に見限られたのは 実は別に そんなに悔しい事では無いんだ。


 なによりも悔しい、というか腹立たしい、いや、悲しいのは

 いろんな人に援助してもらって建てた病院が他人の手に渡ってしまった事なんだ

 援助してくれた人達は もう、殆どがあの世に行っちゃってるからね

 これで、私があの世に行って その人達に会った時、なんて詫びれば良いのだろう?


 一番、残念なのは 娘(養女)達が 病院を処分したら私がそう思うであろう事を

 理解していてくれなかった事… それに尽きる。


 けど、それを理解させてなかった私も間違っていた…って事なんだよね」


と言うのが、「二代目開業医」からまた聞きしたIさんの愚痴である。


このIさんの愚痴を「二代目開業医」から こっそりと教えて貰ったのは、Iさんの葬儀の後である。


その時に、私は ウチの娘が産まれた時にIさんが


「君も とうとう父親だなぁ…」


と、感慨深げに言ってくれた言葉には 私が父親になったのを祝ってくれたのと同時に 自らの愚痴を重ねて


「ブタネコ君は 娘に見限られない様にしろよ」


と、諭してくれた言葉だったのだな…と、私は思った。


だから、たぶん Iさんのその言葉のお陰による影響が強かったのだと思うのだが、私は娘達との接し方に関して Iさんが養女達に接した仕方を反面教師にさせて頂いた部分が強い。


父親だからと見栄やプライドばかりを強くするのでは無く、弱い部分や デタラメな部分をちゃんと見せて 元々の性格と言われればそれまでだが、


「どっからでもかかって来いやぁ」


…って感じで過ごしてきたのだ。




余談だが、Iさんが亡くなり 身寄りのいないIさんの為に、まだ生存していた喫茶「職安」の常連さん達や我々バイト学生が7回忌の法要を行った際、Iさんの養女だった姉妹が その後、どうなったのか? という話題になり、「気の弱い弁護士」のところの調査会社に命じて その後を調べさせたところ…


姉の方は Iさんを見捨てて5年後に自殺


妹の方は 子宮癌で余命数ヶ月… という結果だった。


それを聞いた 運送屋のNさんは


「オマエ達、つまんねぇ事を調べたなぁ…」


と、我々に説教した後


「まぁ、ザマァミロ…ってこったな」


と、寂しそうに笑った。


お駄賃

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