● 市川版:病院坂の首縊りの家 再考
市川監督の訃報に接し、「病院坂の首縊りの家」を再見した。

私は横溝作品の原作と 市川版の映画は何度も読み直し、見返したものだが、実は この「病院坂の首縊りの家」に関しては 他の作品に比べて見直した回数は極端に少ない。
原作に関して言えば この「病院坂の首縊りの家」が発表されたのは1975年~1977年にかけて角川書店から発行されていた月刊誌『野性時代』に連載されていた時、毎月 その雑誌が発売されるのを心待ちにして読んだのが最初。
その後、上下巻として発売された単行本を入手した時に もう一度読み、それ以降はきちんと読み直した事が無い。
映画に関しては 封切り時に映画館で見たのと、DVDを入手した時、そして 以前にこのブログに記事を掲載した時の3回
…というのが記憶にある回数だ。
「悪魔の手毬唄」や「獄門島」が 原作もDVDも数え切れないぐらいに見たにも関わらず、「病院坂の首縊りの家」を それほど見直していないのは何故か?
原作や映画が駄作だから? 否である。
「金田一耕助最後の事件」だからだ。
他の方々が何と言われようと知った事では無い。
私にとっては「金田一耕助」は永遠のヒーローなのだ。
だから、「最後の事件」を読んでしまうと
「あぁ、もう金田一耕助の活躍は見られないんだな…」
って気分になってしまう それが嫌だからだ。^^;
今回、市川監督の訃報に接し、私にとって最も喪に服すのに適した作品は 実はこの「病院坂の首縊りの家」なんだと思っていた。
時系列で言えば この映画の後、市川監督は「八つ墓村」と「犬神家の一族」のリメイク版を撮っているが 「八つ墓村」は石坂金田一ではないし、「犬神家の一族」のリメイク版は趣が違う。
つまり、市川監督による「石坂:金田一耕助」シリーズの最後の作品と呼べるのは この「病院坂の首縊りの家」であり、文字通り 原作としても「金田一耕助最後の事件」なのである。
さて…
今回、あらためてじっくりと「病院坂の首縊りの家」を観た。
見終えた後、涙が出た。
原作において この物語は昭和28年の事件と、その20年後の昭和48年の事件との2部構成となっている。
横溝正史の描いた作品群の中には 過去の事件による怨恨や因果がもとで生じた事件…という展開が少なく無いが、前と後の双方の事件に金田一耕助が絡むケースは多くない。
それだけにストーリーの規模は壮大で これを2時間の尺で映像化するのは無理だろう。
現に市川監督も 基本的に前半部である昭和28年の部分にのみ集約して映像化しており、ともすれば 横溝フリークの私としては「なんだそれ!」と文句を言うのかもしれない。
けど、そんな文句を 市川監督に言う気は全く無い。
今では 逆に感謝さえしている。
それは、他の監督や制作者により映像化された横溝作品の その殆どが、横溝文学を解しもしない映像化で 原作を単なるモチーフとしてしか利用しない姿勢の映像に 私は辟易とさせられていたからだ。
だからこそ 他の映像制作者とは違い 御本人自らが横溝ファンと称する市川監督が その深い金田一解釈の上で 原作発表後そんなに間もなくで、誰も映像化していない この「病院坂の首縊りの家」を真っ先に映像化しておいてくれてありがとう… そう感謝しているのだ。




映画の冒頭、在りし日の横溝正史先生御本人が登場し 金田一耕助がアメリカに出立する前に挨拶に立ち寄った…というシーンがある。
このシーンでの横溝先生のお姿に涙が禁じ得ない。
金田一シリーズの作品群の中には 金田一耕助が小説家のY先生を訪ね、話を聞いたY先生が 金田一耕助の事件を小説として発表する…という図式のものがいくつかある。
ゆえに、石坂金田一が横溝Y先生のもとを訪ねる…という図式は 双方のファンにとってはこれ以上の説得力は無い程のシーン
私に言わせれば この数分間のシーンを見る為なら映画館の入場料1800円どころか3千数百円のDVD購入も全然惜しくないほどの価値がある。
敬愛するゴーシュさんの「15夜通信 … 男・三之介 〇」という記事を拝読し…





これらのシーンに込められた映像制作者としての視点での御話はとても興味深く参考になった。

このブログ内での他の記事で何度も述べた事だが、市川監督は初めて横溝ファンに原作通りの金田一耕助像を見せてくれた大恩人である。
ゆえに、横溝ヲタ 金田一ヲタの一人として 市川監督が描く横溝文学は 原作と違うからといって簡単に文句を言う気は無いしイケナイのである。
だからこそ、「金田一耕助最後の事件」として市川版横溝映画の最後の作品として 大いに好き勝手をして頂いて結構だ… そう私は感じている。



「私は三之介の人力車が好きなのよ」
結構じゃござんせんか
市川監督が そう弥生の人物像を解釈したのなら それで良い。
いや、むしろ 成程とすら思う。

小林昭二が演ずる車夫「三之介」と弥生の会話のシーン(特にラスト)
言ってしまえば、たったそれだけのシーンで いわゆる巨匠と呼ばれて たかが純文学や時代劇で芸術作品ぶっている数多の邦画界において これほど芸術性の高い場面を どれだけの巨匠とやらが描けているのか? 私はそう問いたい。
「横溝作品は探偵小説で 推理小説じゃ無い」
なんて、金田一シリーズを甘く見るアホ共に
「”探偵小説”大いに結構、これほど泣ける文学と その辺の推理小説とやらを一緒にするな」
と、私は胸をはって言い返したい。

市川監督は三之介を織り込む事で 横溝文学が素晴らしく芸術性の高い文学である事を 芸術性の高い映像として表現してくれた… そう私は受け止める。

「加藤武」

「大滝秀治」

「三木のり平」

「常田富士男」

「白石加代子」

「草笛光子」

「萩尾みどり」
こういった常連俳優達の渋い演技も これで見納め。
何よりも個人的にヤラレたのは

愛煙家だった横溝正史先生の 美味そうにタバコを吸うラストシーンと その時の台詞に
「また紅茶かい」
という一言。
これは横溝マニアであれば 晩年の横溝正史先生が自らの健康状態に気をつけ 日記に大好きなタバコの吸った本数と 睡眠薬代わりに飲んだ寝酒の量を克明に記しており、特に酒は節制を守っていた事を想起させる一言なのだ。
「また紅茶かい(たまにはウィスキーが飲みたいな)」
私には そう聞こえる。
だから、市川監督を偲んで観たはずの「病院坂の首縊りの家」で 横溝先生まで偲んでしまい 見終えた後、しばし涙が止まらない私だった。
最後に

レンタル版のDVDの特典にある市川監督の言葉を紹介しておこうと思う。



