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2008年02月29日

● 白い巨塔 考(その4)


今回は「佐々木庸平」と家族について語ろうと思う。




【佐々木庸平】

白い巨塔白い巨塔

「田山涼成」                           「谷幹一」


【佐々木よし江】

白い巨塔白い巨塔

「かたせ梨乃」                          「中村玉緒」


【佐々木庸一】

白い巨塔白い巨塔

「中村俊太」                           「中島久之」


まずは、「佐々木庸平」と家族だが…


白い巨塔

原作における「佐々木庸平」は生地問屋を営み、ワンマン経営でワガママな人物 田宮版では その辺のところが巧く醸し出されており、唐沢版では 設定は現代風に弁当屋を開業して間もない主として設定は置き換えられた関係もあって「商売優先」という本来の姿勢よりも 人間として性格的に偏屈な人間像が滲んでしまっているところに違和感を覚える。


例えば、医者の中には「検査好き」と揶揄されるタイプがいる。


とにかく、トコトン検査をしまくるタイプの医者なわけだが これには


 ・診断の為には 納得がいくまで検査をする


という意味合いの人物と


 ・検査を重ね、診療報酬をつり上げる


という意味合いの人物とがいる


基本的に 前者は「医者としてあるべき姿」とされ 後者は「メスよりもそろばんを優先する男」と蔑まれる。


私の知る現実的には 後者のタイプの医者の方が圧倒的に多く、それが しばしば問題となる。


けれども、癌の早期発見とか 単なる腫瘍か、癌かを見極める為に…とか、転移の有無や 他に別の病気を抱えていないか…とかを見極める為には それなりにいくつもの検査が必要でもある。


ところが、日本の診療で 特に健康保険制度においては 診察における検査やレントゲンの枚数など、診療報酬の上限をある程度におさえる為に制限がある。


田宮版の頃と唐沢版の頃とでは 時代背景的にそういった制限もずいぶんと変わっているので、現代風にアレンジするには 色々と難しい面もあると思うのだが…


学生の頃、車の免許を取得して そんなに経たない時に 運転中、信号待ちで停車している時に追突され、病院に行った時の事


保険証を持って 普通に病院に行き診察を受けたところ レントゲンは正面と横の2枚だけで 首に湿布を貼って「はい、お大事に」だったのだが…


助手席に乗っていて事故に遭遇した友人が 別の病院に行ったところ、即入院となり 人身事故扱いにするから 再度、私にも病院に行けと言う


なので、別の病院に行き 最初から事故に遭った…と話したら 医者は


「どんな事故?

 ほう、追突ね アナタが被害者なのね…

 交差点で信号待ちして 完全に停車してたんだ…

 急ブレーキを踏んだりはしてないのね? そっか、じゃ 100対0でアナタは被害者だなぁ…」


私の 首のどの辺が痛いか?とか 気分は?とか 病状を聞くよりも前に 事故の状況を念入りに聞き それからはじめて、「どこが痛い?」と聞く


後になって判った事だが、これは 事故の怪我の場合は健康保険の適用では無くなり、別の請求適用となる為で 極端な言い方をすれば、事故の被害者の場合は加害者自身、もしくは加害者の加入している損害保険への請求となる為、健康保険では制限されていた事項が外れた途端、斜めから…とか、上半身のモノや 痛み止めの注射や、脳波のチェックまで行われたものだ。


でね、健康保険が適用されれば 患者は治療費の自己負担は少なくて済むのだが、その反面 真面目な医者が治療の過程で 念のために行いたい検査があっても、保険の制限内で適用されない場合があり それは、時には治療に対しても制限を与え、患者にとって不利となる場合もあったのだが


先に述べた「検査を重ね、診療報酬をつり上げる」タイプの医者に対する制限が 患者に対してハネ返る結果になっていた事を問題視するメディアや識者は多くは無かった。


さて…


なんで こんな前置きをするかというと、原作における「佐々木庸平」の死亡に至る診察過程の中で描こうとした内容の中には 保険適用患者と無保険(つまり、金持ちの自己負担)での診察の違いという部分がある。


が、その多くは「特診患者」という表現で 大きな企業の重役や政治家など、金や地位をもった人間に対する特別サービスみたいな部分のみを特化させて映像では描かれており、保険制度の現実…という部分は 見る側も気づかずに映像を見ている。


つまり、何を言いたいかというと 当時の医学水準と保険制度の中で「佐々木庸平」の病状を医者が正確に把握出来たのか否か? という部分に視点をおいて原作と田宮版と唐沢版を見比べてみたら…と、言いたいのだ。


私は医者では無いので、申し訳ないが専門的な部分で正確な認識の発言をする自信が無いが…


後に 裁判となり、医学的な論争がいろいろとなされるが 裁判として重要と見なされる点は「肺の影に対して 転移の疑いをもって検査をしたか否か」であり、それを中心に物語は描かれる。


でもね、保険制度や医学水準を考えた場合に 単純に「誤診だ」と財前が責められる話なのか?と 映像の描き方に疑問を抱くのだが如何だろうか?


財前は ごく初期の食道癌から肺への転移による陰としてはイレギュラーであり、肺の影を以前の肺炎による古い病巣と断定してしまう。


結果、それが誤診だ…と言われるわけだが 田宮版の時点、少なくともそれより以前の原作が発表された時点での医療水準において 保険制度で限られた診療行為下において食道癌を見極めた里見や財前の技量が どれほど高かったのか…を まず理解すべきなんだな。


で、問題なのは財前と里見の言動も 一般としてはイレギュラーだから、「誤診云々」と言われる。


けどね、もし 最初に診た里見が「慢性胃炎ですね」と 当時の水準通りの診断を下していたならば「佐々木庸平」は死なずに済んだのか? 否である。


そうなれば「佐々木庸平」は 病状が悪化し、どの医者が診ても肺に転移した食道癌の末期患者として 結局は死んだであろう。


しかしながら、そういう結果に終わっても 誰も(どの医者も)「誤診」と責められる事は無かったんじゃなかろうか?


つまり、言い換えれば 財前は優秀すぎたが故に「誤診」をしてしまった事になる。


この皮肉な展開を 映像制作者達は理解して映像を描いたのかな?


そう思いながら見た場合、田宮版では それなりに不備はあっても「可」だが、唐沢版は「不可」で おそらくは何も気づいていないんじゃないかとさえ思う不備がある。




それは「佐々木庸平」というよりも、「佐々木庸平」の家族の描き方が問題なのだ。


まず、妻役を考えると

白い巨塔

田宮版の「中村玉緒」は実に巧く演じており台詞も問題無い。


それに対して

白い巨塔

唐沢版の「かたせ梨乃」は どうも、役柄設定を勘違いしているフシがある。


そもそも、「佐々木庸平」が浪速大学付属病院に診察に行った経緯を考えた時、原作と田宮版では『佐々木庸平が誰かから里見助教授が名医だ』と聞いて受診した。


それに対して、唐沢版では 里見が講演した会場で里見を引き留めて話しかけ…がキッカケとなっている。


似た様ではあるが、この違いは大きいと私は思う。


と言うのは、まず、唐沢版の場合 妻が里見を信頼して夫を受診させた…という意味である事 ここがポイントなのだ。


後に、「佐々木庸平」が死に至った時 里見を殆ど責めず、財前ばかりを目の敵にする姿に唐沢版の流れでは違和感を覚えるからだ。


「かたせ梨乃」という女優の器量はともかく、この部分の責は制作者側 特に演出家が問われるべき問題だと思うので 役者に対する細々とした文句を言うのは差し控えるが、遺族感情という部分は充分に理解が出来るとしても この唐沢版の流れでは財前ばかりを責めるのは私には如何なものかと思ってしまう部分が強い。


おそらくは唐沢版では 財前のキャラクターと、対照的な里見のキャラとをを際立たせる事にばかり主眼を置いていたのではないかと推察する。


しかし、その唐沢版の意図が正しいとは私には思えない。


言い換えれば、原作の深さを知ろうとせず 表面だけで解釈した未熟さすら感じる。


で、その点に関しては「佐々木庸平」の息子のキャスティングや設定を見れば さらに顕著で


白い巨塔

田宮版では親思いの孝行息子


白い巨塔

それに対して唐沢版の場合 現代風のフリーターで 父親が死ぬまでその存在のありがたさなど考えた事もない様な若者


この息子の重要なポイントは 財前を訴える事を言い出し、そして母親に決めさせたのは田宮・唐沢 双方とも この息子が言い出した点である。


つまり、田宮版の場合 単なる感情論だけでは無く、息子自身の聡明さや親思いの気持ちが示されているのに対して 唐沢版では単なる感情論でしか無い。


ある意味、現代では多いと言われている こういった息子像を描く事で、突然 父親を失い、大人としての自覚が芽生えた…みたいな描き方はアリかとも思う。


しかしながら、「白い巨塔」という物語の全体像を考えた時 唐沢版の設定がアリか?と問われれば 私には説得力を感じない。


だって、裁判には時間と金がかかるのである。


経営者を失った店の存続や これからの収入を考えた時に、裁判に臨むという事は それだけの覚悟と責任を伴う。


物語の流れを知っている視聴者には「いずれ財前は敗訴する」と知っているから ともすれば「財前」=「悪」という図式で 裁判に臨むのが正解…と短絡的に考えるから気にもならない人が少なく無いとも思われるけど 実際面での事を考えると その覚悟と責任感の重さが田宮版と唐沢版では明らかに違っており、その上 ハッキリ言わせて頂ければ唐沢版の息子役を演じた人物は 役者と呼べる技量の持ち主では無く、へたなエキストラの方が余程マシな演技を見せるんじゃないかとすら思う。


つまり、唐沢版の制作者は 「佐々木庸平」の息子という役を あまりにも軽く考えていたと言わざるを得ない。


お駄賃

 気が向いたら…で結構です。^^;

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コメント

拝見させていただいております。
過去のコメント欄などをみますと、世代の違いがもろに評価に出てきている感じですね。どちらの作品を先に見たのか、また演者自身の同じような役柄のドラマを先に見ているのかによる先入観が多い感想も多々ある印象でした。

この記事で気になったのが、次の息子がドラ息子ではおかしいと言う所で、

> 経営者を失った店の存続や これからの収入を考えた時に、裁判に臨むという事は それだけの覚悟と責任を伴う。

だからこそ、感情的に物事を決めてしまうような人物像の方が合っているようにおもいます。だって、本当に家族思いだったり、責任とかを考えれば、この作品の背景での医師に対して訴えようなんてことはできないでしょう。佐々木妻や社員もみちづれになってしまう可能性が高いのに、それでも訴えるってのは、家族の気持ち云々というよりかは自分の(浅い感情の)正義感としか思えません。(役者に関しては、私も奥さん、息子とも違和感があったのは間違いありません笑)

★ ううたん さん

コメントありがとうございます。

御指摘の件、否定はできませんが肯定もできません。

>どちらの作品

どっちが先かの問題では無く、唐沢版を現代の時代背景に置き換える際に無理が多々ある…という意味合いが主です

>先入観

「先入観を与える配役が気に入らない」旨を記しておりますので なんとお応えして良いやら…と。

>感情的に物事を決めてしまうような人物像の方が合っているようにおもいます

確かにそれも一理あると思います。

が、本当に唐沢版を見て そう解釈出来ますか? それが疑問です


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