● 市川版:獄門島 再考
市川崑監督の訃報に接し、「獄門島」を再見した。

「獄門島」の原作と言えば 私に言わせると過去に読んだ全ての推理小説の中で最高傑作だと確信している。
これほど読んでいる最中にハラハラドキドキし、時にはビビリ、最後に泣かされた本は無い。
だから、率直に言って 相当のクォリティじゃ無い限り、容易に認めるわけにはいかない。
ゆえに、正直に言えば この市川版も完全に認めているわけでは無い。
ただね、市川版のクォリテイを超える作品は未だに見た事は無い。
変な言い方かもしれないが他の獄門島作品は それなりに良い部分は認めつつも、殆どが何かしら酷評されている。
にもかかわらず、市川版は酷評されていない… そこが重要なのだ。
よく、市川版:獄門島を批判する意見の中に見受ける内容として
・原作と犯人が違い、その為に「見立て」という重要な要素の必然性が欠けている。
というものがある。
部分的には同意なんだけど、でも、これってよく考えてみれば 真の意味での犯人は変わっていない…って部分に気づくか否か?なんじゃなかろうか。
映画版には オリジナルな登場人物が配されているから気づき難いかもしれないけど、私には真の意味での犯人は変わっていないと思えたから、その部分には不快感はさほど抱かなかったのだ。
さて、原作の「獄門島」を味わうにおいて 現代人にはピンとこない、戦後間もなくの日本社会ならではの風味 そこが判るだろうか?

例えば、映画冒頭に 金田一が傷痍軍人に道を尋ねるシーンがある。
傷痍軍人とは 太平洋戦争に出征し、戦地で大怪我を負いながらも命だけは失わずに帰国した兵隊さんで 上の画の様に、戦闘帽を被り病院服を纏い 街角に佇んでハーモニカを吹いたりして寄付を募っていた姿は私が子供だった昭和30年代の後半でも 大きな街の駅前や中心街ではよく見かけたものだ。
で、この金田一が話しかけた傷痍軍人は その後のシーンで

実は片足を不自由になったフリをした男、つまり詐欺師である事を示している。
これは終戦間もない頃に 日本全国至る所で発生した「復員詐欺」と呼ばれた事例のひとつのパターンで 本当は負傷などしていないのに傷病補償を受けようとしたり、戦友の無事を知らせると称して 本当は既に戦死している兵の実家に行って御礼をせしめる…なんて行為。
よく「戦後の混乱」と一言で言われる その「混乱」には こんな詐欺師が引き起こした混乱も多かったのだ。
そういった戦後間もなくの時代背景を考えて読むと この「獄門島」で起こった事件の動機や背景には深味がある事に気づく。
「何故、被害者達は殺されねばならなかったのか?」
「何故、犯人は犯行に至ったのか?」
基本的には「探偵小説」であるから トリックとか、アリバイ工作に目がいきがちだが、横溝正史が描いた金田一耕助シリーズの 特に傑作と呼ばれる書は この「動機」という部分の背景や説得力がずば抜けて秀逸な点にある。
ところが、多くの映像関係者は 横溝作品を映像化する際にトリックとか、アリバイ工作、もしくは「おどろおどろしい」という部分を 残虐な殺し方や死体にばかり求めてしまうばかりで 肝心要の「動機」の描写が御粗末。
しかしながら、市川監督は 独自の映像美で「おどろおどろしい」を表現し、基本は「動機」の描写に力を注いでいる 言わば基本中の基本を押さえた姿だから文句をつける気になれないのだ。
ひとつだけ個人的に残念な点を挙げれば…

磯川警部ではなく、何故か「等々力警部」が登場した点だが、これに関しては 当初、横溝映画は「犬神家の一族」と「悪魔の手毬唄」の2作品だけ映画制作が決定していたが、この2本の興行成績が予想をはるかに超えるヒットだったため、追加制作されたのが この「獄門島」という流れを考えれば 2作目の「悪魔の手毬唄」で磯川警部「定年云々…」の台詞や設定をしてしまっているから仕方が無いと認める他無い。^^;
また、市川版ならではのキャスティングの妙を挙げておけば

「早苗」役に「大原麗子」をもってきた事。
この当時の「大原麗子」は最強無比だったんだよねぇ…(遠い目)
さてさて…

上の画は映画内で瀬戸内の風景のワンカットである。
で、これは昨年の秋に私が瀬戸内を旅した際に 鷲羽山で写した写真。
お判り頂けるであろうか?
私が写した本四連絡橋の橋桁が立っている島が 上の映像内のカットに映っている島である。
30年という月日の中で こんな感じで景色が変わってしまったわけだ。
で、この橋があり 車で15分もあれば渡れてしまう瀬戸内が当たり前の感覚の現代人に、金田一耕助が小船で島に渡った風情を判れと言うのは酷な話なのかもしれないが そんな風情を後世にも伝えてくれるであろう文章表現の巧みさが横溝文学なのである。
今となっては 市川監督が映画化してくれたお陰で、ともすればこの映画も後世では立派な文化遺産として扱われても良いとさえ思っている。

