« 吉瀬美智子 in いいとも♪ | TOPページへ | 沈黙ピラミッド »

2008年02月15日

● 白い巨塔 考(その3)


今回は 東教授に関して考えてみる。




白い巨塔白い巨塔
 

唐沢版の「石坂浩二」と田宮版の「中村伸郎」


どちらも役者として甲乙つけがたく大好きだ。


ゆえに、この両者のキャスティングに不満は無いし、両者それぞれ好演もしている。


が、例えば


「白い巨塔は 田宮版が唐沢版より良かったねぇ」


逆に


「唐沢版の方が 現代感があって判りやすかった」


等と 白い巨塔の田宮版と唐沢版を比較して語る人が多い中、その比較対象の論点に東教授が挙げられないのが私には不思議でならない。


というのは、役者云々じゃないの 役の設定が問題、私はそう思っているからだ。


ちょっと、落ち着いて考えてみよう。


そもそも「白い巨塔」の物語って何?って事を。


東教授が定年退官にあたり、助教授である財前に すんなりと後を委ねれば何の問題も無かったんじゃないの?


それを、財前に後を譲らず 他大学の菊川教授の招聘に動いたから、対立構造へと至ったわけで…


では、何で 東は財前に譲らなかった(譲りたくなかった)のであろう?


一般的には 財前の技量が東を凌ぎ、それに対して東が嫉妬したから…という点と、財前の人間性にアクの強さを描く事で それを嫌う東の心理を正当化させる演出が相俟って描かれているわけだが…


ここで、大事な事がひとつあるのに、比較して語る方々の多くが何故か触れない要素がある。


それは、浪速大学医学部の新館増築工事というエピソードである。


東は 元々、浪速大学の生え抜きではなく、東都大学からの外様として苦労を重ねた経緯がある。


そんな東が自らの母校でもない浪速大学の新館建築の為に東奔西走したのは 人一倍プライドが高く、新館建築 最新の医療設備導入というのは自分の城、つまり自分の権威を高める事であり、その結果だ。


ところが、ようやく建設工事が始まったけれど、落成した新館に東が在任出来る期間はごく僅か。


しかも、定年退官の日が近づくにつれて その教授の座の愛おしさが増す心情は とても重要だと思うのね。


自分が築き上げた城を誰かに譲らねばならないとなった時、譲ろうとする相手に対して雑念が混じり そこに嫉妬が加われば… だからこそ、東教授は財前を排除しようとしたという部分をを念頭におくか否かで全体像が変わってしまう。


違う言い方をすれば、そういう東の心情をボカしてしまうと 単に財前が東に嫌われるだけの悪者というイメージだけが強くなってしまう…という事だ。


で、この部分を念頭において 原作、田宮版、唐沢版を眺めると、原作と田宮版ではキチン描かれているのだが、唐沢版ではアレンジされている。


白い巨塔白い巨塔

白い巨塔白い巨塔

上の画は田宮版の第3話だが この様に工事の模様や それを眺める財前や東の描写は毎回散りばめられている。


白い巨塔白い巨塔

唐沢版では物語が始まった時点で新館建設は既に終了しており、それに関しての東の感慨は特に触れられておらず、物語の後半で上の画の様に「高度がん医療センター」なるものの建築エピソードが原作や田宮版における学術会議選挙のエピソードと置き換えられているに過ぎない。


だから… なんだろうけど、田宮版には独特の拘りとも言える象徴的な演出がある。


それは、各話の冒頭で


白い巨塔白い巨塔

白い巨塔

上の画は「東教授の総回診です」というアナウンスで始まるシーン


これが、財前が教授になったと同時に


白い巨塔白い巨塔

白い巨塔

「財前教授の総回診です」とアナウンスされて映る画面は 新築なった病棟の風景に変わる。


もっと細かい事を言えば


白い巨塔

東教授時代の教授室の電話は黒のダイヤル式だが…


白い巨塔

財前教授の電話はプッシュホンに変わっている… なんて配慮まである。^^


まぁ、電話機の話はともかくとして 私の言いたい事は「何故、東は後任教授に財前を指名しなかったのか?」という重要な要素を蔑ろにして 田宮版が良いとか、唐沢版が良いとか比較する感想は論外だと言いたいだけなのだ。


要するに、唐沢版では根本的な要素を忘れた描写にも係わらず、それが崩壊しなかったのは 全ての面において東を演じた「石坂浩二」の演技の凄さに寄る所が大きいという事。


白い巨塔

「ニヤリ」とする笑顔だけでも いくつもに笑い分けられる演技力には只々敬服するばかりだ。


が、結局 それらに惑わされて、財前の人間性を ともすれば誤解させてしまうような演出の唐沢版を 私は駄作とまでは言わないが、褒める事は出来ないと思っている。


だってね…


唐沢版の様に東の内面、「何故、財前を後継指名しなかったのか?」の肉付けが欠けていると 財前が最後の局面で自分の手術を東に望む意味が違ってしまいかねないでしょ?


ブタネコ流の解釈で申し上げれば 財前は東に対して最後まで「恩師」という畏敬の念を忘れておらず、それに気づいた東は…って部分が 唐沢版には欠けているからだ。


お駄賃

 気が向いたら…で結構です。^^;

 この記事への御駄賃がわりに下のバナ-のいずれかを クリックして頂けると嬉しいです。^^
 (全部、クリックしてくれると もの凄く嬉しいのは事実です。^^)

ブログランキング・にほんブログ村へ Blog Ranking 人気映画・TVBLOG blogram投票ボタン BlogPeople「自分のこと」部門にクリック BlogPeople「テレビ」部門にクリック BlogPeople「映画」部門にクリック

『白い巨塔』関連の記事

コメント

ブラボーです….
こういう思索を「解釈」と呼ぶのですね.(笑)
今夜の東村山は上弦後の澄んだ空です.
月夜にまぎれてお邪魔いたしました.

追伸,先日は市川監督のはてブ,ありがとうございました.
やはりそれぞれが悼むところと思い,コメントは控えましたが,
痕跡は残すべきと考えた次第で(苦笑),それを気付いていただけて
光栄です.市川監督に関しましては,きっと近々にきちんとした
形でお手合わせできると予感しております.

★ ゴーシュ さん

私は財前五郎というキャラが とても大好きなんです。

唐沢の財前もけっして悪くはないと思っているんです。

それだけに、つい 言ってしまいました。^^;


>市川監督の件

御歳を考えると大往生と考えるべきなのかもしれません。

それだけに深く感謝と御礼を申し上げたいと思うばかりです。

>お手合わせ

どうかお手柔らかに…^^

私は唐沢版を観ていないのですが (途切れ途切れに観たことはありますが、頭から終わりまで観たのは最終回だけです)、ブタネコさんの記事は大変興味深く拝読いたしました。

役者の比較画像もとても嬉しかったです。思わず、懐かしい~と声に出ました。

それと田宮版の OPシーン、“東教授時代バージョン” と “財前教授時代バージョン”!

いや~嬉しかったです。「○○教授の回診です」 という声とともに、テーマ音楽が聞こえてきましたよ。あのOPテーマ、好きでした。
貴重な画像をありがとうございました。

私にとって 『白い巨塔』 といえば原作および田宮版で (観たのは再放送です)、唐沢版にはどうも食指が動きませんでした。

『白い巨塔』 に携帯とかパソコンなんてナンセンス (唐沢版に携帯とかパソコンとかって使われてたんでしたっけ?)、そういった感覚というか想いが、私の中でどうしようもなく根深かったせいもあります。

もちろん、原作が書かれた時代を忠実に再現するかしないかでTVドラマ作品としての成否が左右されることになるとは必ずしも思っていません。
原作が今も読み継がれているような名作ではなおのことです。

たとえば、社会の捉え方の変化ということも考慮に入れなければならない、個人的にそのことを強く感じた最近のTVドラマ作品に中居正広が和賀英良を演じた 『砂の器』 があります。
時代背景を移し替えても、原作の肌触りを殺すことなく、まずまず味わい深い作品に仕上がっていたと記憶しています。

また、木村拓哉が万俵鉄平を演じた 『華麗なる一族』 は、こちらは時代背景の移し替えがきかなかったからか、それともノスタルジアを狙ったのか、ともかくも1960年代を再現してうまくいった例だったように思います。

ともかく私にとって 『白い巨塔』 といえば原作および田宮版でした。
田宮 = 財前の印象が強烈だったのと、やはり私にとって里見は山本學 以外考えられないのです。

この二人が医学の専門用語を交えた長いセリフで激しく言い争うシーンの迫力は今でも忘れられません (迫力だけでどこのどんな場面だったかは思い出せないのですが)。

江口洋介は、なんだかカッコよすぎていたような気がします。
別に見た目とかそういう意味でではありません。里見を演じた山本學もとてもカッコよかったですもの。

唐沢版をきちんと観てはいないし、原作のほうも今ではほとんど忘却の彼方なので、以下はあくまで私個人の勝手な印象によるものですが、
正義感に燃えると同時に控えめさ、慎ましさも併せ持っている里見というキャラクターを考えたとき、
一人で主役を張れる江口洋介は、それゆえあまりにデカく見え、
ゆえに、正義のために苦悩するのはいいとしても、
慎ましさ、の点でどうも違和感を感じた、という記憶があります。

その点、山本學は、
(見た目の体格の違いも関係したかなあ。島田陽子演じた佐枝子との抱擁シーンに どぎまぎ したことを覚えていますが、どぎまぎ した理由の一つは、靴のヒールのせいもあったのかもしれませんが、背の高さの違いをモロに認めることになったからでした)
こざっぱりさも手伝って、正義の情熱を内に秘めた人としての存在感が申し分なく、田宮 = 財前との “対立のビフォー・アフター関係” にも清々しさが感じられてよかったと記憶しています。

田宮版の再放送を観て、山本學 (というより山本學演じた里見) ってステキやわあ、と母に話していた当時、祖母曰く、善玉しか演じられん役者や、と切って捨てられ、山本 = 里見にいたく傾倒していたからでしょう、“善玉しか” という言葉になんだかとってもアタマにきてフンガイしたことを思い出しました。

財前か里見かという点については、原作を読み、田宮版を観ていた当時は、どちらかといえばやはり里見のほうに、より好感を抱いていました。
高潔の人という印象に加え、佐枝子との関係の切なさがあったせいもあります。

けれどこうしてブタネコさんの記事に接し、あらためて 『白い巨塔』 という作品を思い返した今は、財前のワイルドな魅力も捨てがたかったことを思い出しました。

同時に、母親に送金するシーンなど、財前の人となりを描くのに山崎豊子が公平さに配慮していたことがぼんやり思い出されます。

田宮版の最終回で、私の中に残っているおぼろな記憶として、遺書のナレーションが流れるなか、太地喜和子演じたケイ子が波止場かどこかでしきりに涙を拭っているシーンがあるのですが (あくまで私的イメージですので実際とは違っているかと思います)、陰ながら最後まで財前の側にいたケイ子という、里見とはまた違った角度からの理解者の存在に、心安らぐ思いをしたことを覚えています。

最期の最後まで財前を想い続けた太地 = ケイ子にバツグンの存在感を感じるのは、唐沢版との演出の違い、もしくは個人的見解からハッキシ言わせてもらうと、黒木瞳演じたケイ子に、存在感ならぬ どうしようもない違和感を感じたせいもあるような気がします。

田宮版において、確か太地 = ケイ子が山本 = 里見に赤いバラの花束を託すシーンがあったかと思うのですが、このケイ子の人目をはばかる姿に彼女の財前への想いが凝縮されていて、もうこのシーンだけで観る者の胸を詰まらせるに充分でした。

しかるに唐沢版の最終回で残ったものといえば 『アメイジング・グレイス』 の荘厳さのみで、田宮版にあった “最終回としての感動” は感じられなかったと記憶しているのも、別に黒木瞳が悪かったのではなく (と言って彼女のどこに良さを見いだしたらいいのかよくわからないのですが)、やっぱり演出の差異によるものだったんじゃないかと思うしだいです。

なんだか脈絡のないことをあれこれ長々と申し訳ありません。

今思うのは、財前と里見というのは、山崎豊子が生み出した、綱引きを演じるのに申し分ない存在感を持った素晴らしいキャラクターだった、ということです。

そしてその二人を見事に演じきった役者というのは、私にとっては田宮二郎と山本學でした。
この二人は 『白い巨塔』 の映像化における最高のタッグだったと思っています。

★ HAZUKI さん

ども、お久しぶりです。

北海道では 今、唐沢版白い巨塔の再放送が 毎日、夕方放送されています。

それを見ていて オンタイムで見た時よりも、さらに気づく点があり、今回 記事でいつも通り好き勝手に語っております。^^;

財前を演じている唐沢、そして里見を演じている江口 どちらも演技としては好演だと私は感じています。

けど、演出をしている人物は 田宮版に比べ 財前や里見の人物考証が甘い、原作を読み込んでいませんね… そういう風に感じる部分が日増しに増えております。

現代と 原作発表時とでは 医学の水準や大学病院の内側など似て非なる部分は大で、だからこそ 唐沢版は現代に則した内容に改修されるのは 私も良しとしたいのですが、人物像の解釈があやふやなままでは 何を改修しても根本が揺らぎますよね?

再放送を見ていて「あ~、そっか…」と ようやく違和感の正体が見えた気がしました。^^;


【※注意!!】

この記事は『ブタネコのトラウマ』の倉庫に保管されている記事なのでコメントの投稿は出来ません。 2015年2月10日以降 このクソブログは『ブタネコのトラウマ・リニューアル版』に移転しましたので新規記事更新及び、過去記事へのコメントの受付もそちらで行っておりますので お手数ですが、そちらへの移動をお願い申し上げます。