● 白い巨塔 考(その2)
今回は財前と里見について考えてみる。
私が医療モノのドラマに関して あまり語りたいと思わなかったのは、多くの医療モノの場合、ゴッドハンドと呼ばれる様な外科医が登場して 難しい手術を劇的に成功させ、奇跡ばかりを起こすから。
ドラマで描かれる奇跡は ドラマのクォリティが高ければ高い程、それが感動になるのだが、「奇跡」というのは滅多に起きないから「奇跡」なのであって、そういう現実に気づくと「あれはドラマだからね」と 反動の様にネガティブになる。
そんなドラマを居間で寝転がって ポテトチップを食べながら、脇腹をボリボリ掻いて見ている視聴者にとっては どうでも良い事なのだろうけど、実際に病院や自宅で病と闘いながら娯楽を求めて見ている患者や その家族など周囲の人々にとっては 医療ドラマがお手軽に奇跡アイテムを乱発した挙げ句の反動ネガティブは百害あって一利無しとさえ言える。
さて、「白い巨塔」が原作の発表から今日に至るまで名作と讃えられ、私も同感に思うのは 主人公である財前五郎は原作において 外科医として卓抜とした技術を持ち、技術だけを考えれば何の問題もなくスンナリと教授になっておかしくないはずなのに、野心の強さ、人間としてのアクの強さが災いして恩師である教授に妬まれる。
つまり、医療モノではあるが「奇跡」アイテムに頼るのではなく、むしろ、医療技術が高いが故に 死亡した患者の家族から訴えられる羽目になる…悲劇の物語だからだ。
原作が発表されたのは1963年、今から45年前の事なので 今の医学と当時の水準とは随分と違っているから、医療技術そのものや扱われる病気への対処や認識も大きく変わっているので 原作そのままを今の水準で推し量るのは意味が無い。
例えば、この原作が発表された当時は 癌と言えば「胃癌」の発症率や死亡率が高く、その早期発見の為のプロセスや技術が 今では信じられない程の研究段階であったから、それを今の医療水準や 患者である我々一般の予備知識とは雲泥の差がある。
では、そんな原作が今でも色褪せずに語り継がれるのは何故かと言うと 大学病院における医療のあり方と、医者がそれぞれに持つ使命感やヒューマニズムといったモノのあり様が この頃と今でも 実はそんなに変わっていない点にある。
よく、この「白い巨塔」を見た人達の間で
「貴方は 財前と里見、どちらの方が正しいと思いますか?」
という観点で議論が起こったものだが、それだけ 財前と里見という二人の人物像が対極的に描かれている証拠でもあるのだが…
その場合、里見を支持する人達の意見を総合すると
・人格的に高潔である。
・病気と患者に対して 真っ正面から取り組んでいる。
・里見には信念があり、考えに裏表が無い。
という様な部分に好感を抱く…と、言う。
では、財前は それらの点でどうなのか?と言うと
人格に関しては たしかに「高潔」とは言い難い。
でも、「率直」という点では里見よりも ともすれば清々しさすらある。
癌の告知に関して、里見は「患者や家族の気持ちに配慮して…」と言うが、それは ともすれば配慮が里見自身の葛藤となり、道々巡りになる事もしばしばである。
それに対して財前は スパッとメスをさばくかの如く、患者や家族に癌の告知をし その上で、「患者に病と向き合う姿勢」を求める。
この対照的な告知の考え方に関して 私はあくまでも個人感ではあるが「財前」のやり方を支持する。
よく、「癌の告知」「余命宣告」「延命治療の可否」といった事に関して 対極的な意見が実際にあり、それが議論となったり、トラブルとなる事が少なくない。
患者が自分の病状を知り、それが「余命僅か」とか「手術の成功率が極めて低い」と知ると気落ちして…と「患者の気持ちを大切に考えよう」という意見が出た結果、「患者に事実を告げない」という選択肢を選ぶ。
私は この考えは患者本人の為…と言いながら 実は、医者や患者の周囲の人々の言い訳でしか無いと思っている。
どんな治療を受け、どんな痛みや苦しみを受け、残りの人生がどのくらいなのかを知るべきなのは患者本人であるべきだ…というのが私の考えだから、医者や周囲の人々が患者に事実を告げないのは「優しさ」ではなく「欺き」でしか無いと。
こういう考え方をしている私(ブタネコ)は 一般的では無い、ごく限られた少数意見なのかもしれないと 私自身も思っている。
ゆえに、他者に この考えを押しつける気は全く無いが、主治医である二代目開業医と嫁や娘といった身内には
「もし、オマエ達が俺に事実を告げなかった時は 絶対に祟ってやるからな」
と、何年も前から告げており 私は事実を知った上でくたばろうと思っている。^^;
参考記事:「インフォームドコンセント」
で、話を本線に戻すと…
【財前五郎】


「唐沢寿明」 「田宮二郎」
【里見脩二】


「江口洋介」 「山本學」
田宮版と唐沢版を並べて見た場合、「財前」に関しては 田宮と唐沢、どちらも私には甲乙つけ難い。
アクの強さ…という点では田宮の方が一枚上だが、野心という点では唐沢の方が良く出ており、良い勝負だと思うからだ。
それに対して、「里見」に関しては 率直に言って江口洋介よりも山本學の方が数段上だ。
誤解の無い様に申し添えると 私は「江口洋介」が嫌いでは無い。
彼が「救命病棟24時」のシリーズで見せた医者は好演だったと高く評価したい。
しかしながら、「救命病棟24時」を高く評価するが故に 出来れば、この「里見」の役は江口以外の俳優が演じるべきだったと私は言いたいのだ。
救命病棟24時で江口が演じた医者も たしかに高潔な人物だったが、外科的高潔と里見の様な内科的高潔は似て非なる高潔、ゆえに 外科的高潔のイメージが強すぎて「里見」とマッチしない… そう感じられてならなかったのだ 私には。
この外科的・内科的の「高潔」の違いについて言及すると「救命病棟24時」で江口が演じた外科医の高潔さを良く表しているポイントは シリーズのPART2やPART3で示した「トリアージ」と呼ばれる 大規模災害など、一度に大量の負傷者が発生した時の治療する患者の優先順位を決定するロジックにおいて、限られたスタッフや設備を把握した上で 治療の緊急度、その患者にかかる時間や人員・資材と それに対する救命の可能性を考慮し、時には 救命の可能性が乏しい患者を見捨てる判断…
それに対して、「白い巨塔」における内科的高潔とは 患者「佐々木庸平」に対して里見がみせた 一人の患者の治療にあたり、病状の特定や、死後の死因の究明など 病気に対して真っ正面から時間をかけて取り組む姿…とでも言っておこう。
つまり、要約すると時間のかけ方と かけるべき方向の取捨選択が違う…という事。
これを江口洋介が演じた「救命病棟24時」の進藤と「白い巨塔」の里見に置き換えて言えば 進藤のイメージが強すぎるが故に、里見という医者のイメージが ともすれば、決断の遅い、考えるばかりでモタモタしている医者に映りすぎる…という事だ。
しかも、唐沢版での里見の役柄設定は落ち着いて眺めてみると 原作や田宮版以上に、財前にいろんな責任を押しつけながらも、視聴者にはそれが「里見の正義感」という部分で誤魔化し過ぎている描写が多い事も「なんか違うんじゃないの?」と思わせる要因になっている。
原作や田宮版における里見は その正義感ゆえに、直属の上司である鵜飼医学部長と 医事裁判のエピソード以前にぶつかっており、鵜飼いに対して 自分の信念に基づいた意見をきちんとぶつけている。
しかしながら、唐沢版の里見は 鵜飼に対して、本来の里見であればもう一歩踏み込むべきところで、引いてさえいるにも関わらず、財前に対しては 田宮版よりも踏み込んでいる感があり、その部分を冷静に第三者視点で眺めると 自分では出来ない(やろうとしない)事までもを財前に求め、責めている風にさえ感じられる描写が いささか多い様に私は見受けるのだ。
だから、江口洋介の演技がどうこうという話では無く、いろんな要素を踏まえた上で 唐沢版の里見に納得がいかなくなってしまっている、という事だ。
