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2008年02月06日

● 今年も日向夏が届いた♪^^


毎年、この時期になると宮崎の友人から「日向夏」が大量に届く。




日向夏

届いた日向夏を一個、自分で写真に撮ってみたのだが… なんか、センスが感じられないね この写真。^^;


日向夏を知らない方の為に 同梱されてきたパンフのスキャナ画像を…


日向夏

これ、一度味合うと忘れない美味。


時代なのか 今年は


日向夏

こんな証明書まで添付されていた。


つい昨日、「毒餃子問題に関する私見」なんて記事を掲示した矢先に 日向夏が届くなんて、偶然とはいえ個人的にはとても感慨深い。


この「日向夏」に関しては このブログの最初の頃に「延岡(宮崎県)」と言う記事を掲示した事があるのだが…


その記事の中で記した延岡の友人が 毎年、「日向夏」を送ってくれる本人。


彼とは4年間 同じ大学の学部で学んだ仲なのだが…


農家の倅なのだが 理系の大学で情報工学を学んでいる彼に 


「なんで家業を継がないの?」


と、大学一年の時に聞いた事がある。


すると彼は


「兄貴が跡を継いでんだよ いずれは俺も手伝おうとは思っているんだけど、

 俺は田舎が大嫌いだからさ 都会でひと花パッと咲かせるんだ」


と、言っていた。


成績も良く、性格も良く 同じ学部の連中が羨む就職先を簡単に決めて 端からは順風満帆な社会人生活をおくるのだろうと 彼を知る友人達は皆、そう思っていた。


ところが、就職して1ヶ月も経たないある日、彼の両親と彼の兄が乗った車が事故に遭い 兄と母親は即死、父親も重傷で危篤…という報せが入り 彼としては大急ぎで帰郷したくても ゴールデンウィークの前日だった事もあって 飛行機も列車もどれもが満席、ようやく取れたのは たしか「はやぶさ」という名の東京-鹿児島間を走る寝台車で 当時はまる1日ぐらいの時間がかかった列車で 結局、彼がその寝台車で着いた時には 危篤だった父親も息を引き取った後だった。


しばらくして、東京に戻ってきた彼は 友人達の誰にも会わぬまま会社を辞め、故郷に帰るというその日に 私ともう一人の友人二人だけを呼び出し、学生の頃 遅くまで研究室で実験に夢中になって帰る時に立ち寄った大学の傍の洋食屋で「飯を一緒に食ってくれ」と言った。


3人で学生時代の時と同じくバカの一つ覚えみたいに食べていた「スタミナ定食」を食べながら


「せっかく、いいところに就職出来たのに辞めるなんて勿体無いだろう」


もう一人の友人が 彼に言うと


「実家の借金もあるしさぁ、畑を放っておくわけにもいかないしね」


と、彼は脱力気味に笑っていた。


その後、私と友人は東京駅まで一緒に行って ホームで彼を見送ったのだが…


この時から数年後、私も似た様な経験をする羽目になり だから、今ではその時の彼の気持ちが痛い程、よく判る。


おそらく、彼は 事故の連絡を受けて 直ぐにでも故郷に飛んで帰りたかった筈なのだが、故郷と東京の距離が こんな時程、身につまされる事は無い。


しかも、列車の発車までは数時間以上待たなくてはならないのだが、その数時間は ともすれば何倍も何十倍も永く感じるもので、だからこそ いろんな事を考えてしまう…


これは、親元から 遠く離れた場所での生活を経験しないと判り難い事。


そんな彼が夢半ばに故郷に戻らねばならない決断をした時、東京で彼が過ごした時間の中で 学生時代の思い出が一番詰まっているのがその洋食屋で、思い出の味が その店のスタミナ定食だったんだろうな。




さて… 宮崎の友人の実家は 元々は完全に稲作農家だった。


しかしながら、国の農政が減反政策をとり 稲作農家に対して 水田を他の作物への転作を奨励するなど いろんな制約を加えた。


要するに、食糧管理法により、それまで国が稲作農家を保護する為に 生産された米を国が買い上げるシステムが 時代の流れに反してしまい、技術向上で食管法を制定した頃よりも米の生産性がはるかに向上した事と、日本国内の食事体系の欧米化が増した事で、年々余剰米と呼ばれる 消費されずにダブついた米の量が増加し、そんな過剰米に対する経費が莫大な金額になってしまった事から 転作奨励金という名目の補助金を支給する事で米の生産を抑え、稲作農家が自主的に転作するのを奨励する…というタテマエだったわけだが、結果的に言えば 国が保障的に買い上げる米の予算を削減したかっただけの話で、国内の食糧自給率など全く考慮しない政策だったわけだ。


というのは、農家では無い一般には そういう農政のあり方が農家ばかりを依怙贔屓している風に受け止められ、農家への風当たりが強まり 逆に農家では、年々、転作奨励金が減少されて保障の術が無くなる等、耕作意欲が減少する結果に繋がったから。


例えば、過疎化が問題視されている町村の中には 産業の中心が農業という自治体は少なく無い。


で、そういう自治体での過疎の大きな原因が離農であり、後継者となるべき子供達が農業への意欲を失って 都会へと移っていったから…


要は、農業を家業として続けていく事への夢や希望や魅力や意欲が どんどん失われる方向へと世相や政策が変わっていったからであり、その結果 過疎問題や食糧の自給率問題に繋がっている事に国や国民が無関心すぎるんだな。


農家として大黒柱だった父親や兄が急死した友人のところは 他の農家のしわ寄せや農協の思惑もあって 大幅な減反を言葉巧みに求め、彼は彼なりに思う所があって 水田に次々と果樹を植え それが、今では日向夏の果樹園と化すに至った。


周囲の農家達は そんな彼を


「さすが大学に行っただけあって頭が良いから 先見の明があったんだな」


と、簡単に そして、さも判った風に言うらしいが、彼に言わせれば


「自分達が稲作を続ける為に 休耕田にしたくなかったもんだから、

 その減反比率を若造の俺に押しつけた結果だ…」


となる。^^;


そんな彼の好物である鮭を 時期になったら私は数本、まとめて送り 旬の時期になったら、彼からは私の好物である「日向夏」が送られてくる。


彼から送られてくる「日向夏」が 年々、美味になっているのは決して気のせいでは無いと思っている。


「丹精込めて…」という言葉の本当の意味を この毎年送ってもらう「日向夏」から感じる事が出来るからだ。


おかげで、「日向夏」が送られてくると 私以上に嫁や娘達が喜び、居間が柑橘系の香りでいっぱいになる。


居間の隅で縮こまりながら そんな家族を横目で見て 私は その宮崎の友人と仲良く慣れた事に感謝するわけだが…


数年前、旅の途中で延岡に立ち寄り その友人と会った時の事だ。


「折角、来たんだから ~も見に行こう ~も食べに行こう」


と、友人は家業を放り投げて車を走らせ、私をいろんな名所に案内してくれて、御馳走まで振る舞ってくれて…


その姿に嬉しくありつつも あまりの歓待ぶりにビビった私は


「なんで、おまえ こんなに俺に良くしてくれんの?」


と、聞いたところ…


「俺の両親や兄貴が事故に遭った時、

 少しでも早く帰りたくて切符をなんとかしようとしていた時にさ

 最後まで駆けずり回ってくれたのがオマエ(ブタネコ)でさぁ…


 両親や兄貴の葬式を済ませて、農家を継ぐって決めてさ

 東京の部屋を片付けた時に やっぱ、最後まで手伝ってくれたのもオマエで…


 寝台車に乗る時に ホームまで見送りに来てくれて

 俺がいつも飲んでた焼酎を何処かで買ってきてくれて

 ホタテの貝柱の干物の大きな袋のヤツを一緒にくれて

 ”寝台車には 冷凍ミカンか、ホタテの貝柱が定番だ…”って


 それ、今でも思い出す度に涙が出る程、嬉しかったんだ…


 オマエ、ミカン大好きだったよなぁ?

 大学ん時、オマエのアパートに行くと 必ず、ミカンが段ボールの箱で買ってあって

 いつも、ミカンをムシャムシャ食ってたろ?


 だからさぁ、稲作辞めて 他の何を作ろうか?って思った時

 ミカン、それも 普通じゃ無いミカンにしようと思ったのは ある意味オマエのせいでさ…


 お陰で、隣近所の農家みたいに離農しなくて済んで

 そいつらの畑を買い取って果樹園を大きくできたのも

 結局、日向夏を選ぶキッカケになったオマエのお陰だからな」


と、彼は笑った。


そんな事を 20年以上過ぎてから言われても困るわけで…


「そうか、だったら 来年からは今までの倍の量を送って寄越せ

 ウチの嫁も そして娘達も 凄ぇ喜ぶんだ オマエの日向夏が届くとよ」


と、ついテレ隠しで言ってしまった私。^^;


お陰で、本当に送る量が倍増され 私が送る鮭の量も倍増した。


この物々交換が いつまで続くのかは判らないが、もし叶う事ならば 私の孫や曾孫の代まで続いて欲しい。


そして、いつしか物々交換のキッカケや理由が忘れ去られ「なんで毎年、送り続けるの?」と 曾孫や曾々孫あたりが疑問に思い、先祖である私と宮崎の友人との逸話を知り


「へぇ、ウチの御先祖様は”良い人”だったのかぁ…」


なんて感動してくれないかなぁ… なんて妄想を浮かべて悦に入る私に


「アナタ、御飯よ

 ここのところのTVを見てたら 妙に餃子が食べたくなっちゃったから

 今夜のおかずは 私(嫁)の手作り餃子よ

 残念ながら、メタミドホスは何処にも売ってなかったから入ってないけど」


という嫁の一言が せっかくの良い話を台無しに変えた。^^;


お駄賃

 気が向いたら…で結構です。^^;

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コメント

ブタネコさんへ
またコメントさせて頂きます。今日のお話も気持ちをほんわかさせてくれる良いお話ですね、いつも言いますが多くの引き出しをお持ちで羨ましいです。学生時代の仲間は損得なしで付き合えるので何時までも大切にしたいですね。僕にとっても宮崎は公私とも縁のある場所で老後はここで過したいと思う場所の一つです。気候は暖かいし確か物価も沖縄についで2番目くらいに安かったはずです。それに人情も温かく、よい人に恵まれて仕事も上手く行き毎日が楽しく過せました。丁度その時シーガイヤが破綻したのですが、その時、飲み屋の親父さんが、’あのホテルは一部屋ずつ東京の金持ちの年寄りに売ってしまえば良いんだ、そうすれば借金は無くなるし、年寄りの家族が来てくれれば宮崎も賑わう’というアイデアを披瀝していたのを思い出しました。しかし時代の流れかハゲタカファンドに売られてその後はどうなっているのか気になるところです。

★ タンク さん

>シーガイア

一度、宿泊した事があります。

二度と泊まるもんか…と思いました。^^;

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