● 夕凪の街 桜の国
ちょいと映画館まで行って 見てきた。
キッカケは『虎馬さんのブログの記事』を拝読したからなのだが…
大好物の「麻生久美子」と「田中麗奈」が出演しているのは知っていたが、何かの理由があって「わざわざ映画館に行く程では無いな」と思っていた。
だが、その「何かの理由」が何だったか思い出せない。^^;
で、実は もう一本、別の映画が見たくて映画館に主治医と共に出かけたのだが
「来たついでで見ていくか?」
となり、見た。^^;

あらすじに関しては 虎馬さんのブログを御一読願う事にして いつもの様にブタネコの個人的感想を述べると…
この映画の原作は 既に読み、知っている。
が、原作と映画の比較論を語る気は無い。
今回は あくまでも映画に関して限って感想を述べたいと思うのだが、この作品は「夕凪の街」という前編と「桜の国」と題された後編の二部構成と受け止める事が出来るのだが、その前編にあたる「夕凪の街」に関しては 女優「麻生久美子」ココに在り…と言わんばかりの秀逸さがあった。

最近、「時効警察」により 緩い笑いのコメディエンヌの様に注目度が増した麻生久美子ではあるけれど、彼女が元々持っているポテンシャルがフルに発揮されていたわけじゃない。
彼女の真骨頂は こういったシリアス系で他の同年代の女優達とは隔絶した演技力があったればこその話だという事を この「夕凪の街」で まざまざと見せつけたと言って良い。


恋人に述懐するシーンと 弟に語りかける二つのシーン
「麻生久美子」以外に 「麻生久美子」以上に このシーンを演じきれる女優は他にいないと断言する。
凄かった…、これ以上無い程の台詞の説得力だった。

後編にあたる「桜の国」の「田中麗奈」や「中越典子」も決して悪くは無かったのだが、「麻生久美子」が凄すぎた。
さて、映画のラストに流れるエンドクレジットを眺めていて ようやく「わざわざ映画館に行く程では無いな」と思っていた理由を思い出した。
それは 監督が「佐々部清」だったからだ。
かつて『出口のない海』という映画の記事で 私は佐々部を罵った事がある。
その時に抱いた佐々部への軽蔑感を 今回、拭う事は出来なかった。
「出口のない海」に比べれば 随分とマシな出来だとは思うが、それは「麻生久美子」の演技と 学芸会レベルの海老蔵の違いによるところが大きいだけの話。
せっかく、「夕凪の街」で良い語り口を見せながら「桜の国」で台無しにしてしまった原因は演出・脚本・構成・キャスティング それぞれにバカ監督ぶりを発揮してしまったが故だと思う。
例えば、「堺正章」を起用した不可解さ。
「夕凪の街」で好演した伊崎充則の その後の姿が堺正章という整合性の無さが腑に落ちない。
これに関しては「見た目が違う」という当たり前の子供じみた文句を述べるつもりは無い。
高校生時代のキャラと 大人(老人)になったキャラとが違いすぎて同一人物としての説得力が無い…という意味だ。
しかもそれは、脚本における台詞や 演出における仕草や物腰においても 何のチェックも入っていない編集映像を 監督として世に出すおこがましさに腹が立つ。
誤解の無い様に申し添えれば 私は「堺正章」が嫌いなのでは無い。
「堺正章」特有の飄々さが この役のキャラとは大違いだろ?と言いたいのだ。
しかも、父と母の若かりし頃の姿を 娘が垣間見る…みたいな感じで田中麗奈が 昔の家の路地裏に立つ映像では この映画はファンタジーなんですか?と問い詰めたくなる構成だし。
ラストシーンでの 田中麗奈の表情や仕草も それまでの流れを考えると違うんじゃないのか?と 大いに疑問を抱いたままスクリーンは明るくなった。^^;
これも誤解されない様に申し添えるが「田中麗奈」は 頑張っていたし、良い演技だったのだ。
問題なのは どんなに役者が頑張っても 全体のバランスや構成を考えチェックするのは監督の仕事であり技量なのだ。
ゆえに完成映像に対しては それだけの責任を持つべきなのも監督。
だから、その監督である佐々部に 私が申し上げる感想は「アホか?」である。


