● セクシ-ボイスアンドロボ 考
『セクシ-ボイスアンドロボ 最終話』という記事の中で
では、このドラマの「柱」って何だろう?
それは見る人によって感じ方が違うので 一概に「コレだ」と特定するのは難しいが、私は 大人びた子供のニコが いろんな事を経験する事によって本当の大人になる… そこを描く事で 大人ぶっていてもガキでしか無い子供と、大人になり切れていない大人へのテーゼなのかな?と私は 最終話を見終えて感じている。
と、私は述べた。
この部分について もう少し具体的に語れ…という意味合いの御要望が3件寄せられたので あくまでも個人的な見解と断った上で コソッと語っておく。
つまり、私が感じた事は 子供と大人の境界線上にいるニコという女の子の心の葛藤や成長の過程を 非日常的な出来事と年齢的には大人でも子供の心のままロボとの対比を通して描いている…という風に感じたと言う事。
もっと、具体的に言うと…
ニコは学校で 時々、本当の自分の気持ちを心の内側に閉じこめて 興味の無い事や、本心と違うと判っている事でも 周囲と同調するフリをする。
何故、そんな真似をするのか?について ドラマの最初の回の方でニコは「自分が仲間はずれにされない為」という様な意味の理由を語っている。
これは ひとつの考え方として「”イジメ”の発端が”仲間はずれ”から始まる事への危惧」という意味であり、「波風立てずに 最低限の平穏を保つためには 必要な妥協」という意味でもある。
その考えは否定出来無いし、そういう考えで行動しているのは子供よりも大人の方が圧倒的に多いのが現実だ。
よく、「もうオニィチャンなんだから 少しは我慢しなさい」と親は子供に言う。
会社に入ったら上司の言う事を聞き、周囲の同僚との和を乱さない様に我慢する…
そういう「我慢」の意味が「波風立てずに 最低限の平穏を保つためには 必要な妥協」であり、「大人な振る舞い」なんて事になる。
フザケンナと怒られる事を覚悟で申し上げると…
私が私の人生の中で そういう「我慢」をした時期なんて 大学を出て入社した会社にいた数年間だけ、あとは そんな我慢なんかクソ喰らえって人生なわけで…
特に、学生の時は 自分で「ワガママだなぁ」と思う事は他人に言わない代わりに、他人に無理して同調するような真似や発言をしない偏屈者だった。^^;
でも、それ以上に ウチの嫁はもっと徹底した人で…^^;
嫁の場合は 彼女なりのちゃんとした理由がある。
それは「世界の中心で愛をさけぶ」に関する古い記事の中で いろいろと触れた事だが、中学からの親友で同じ高校に進んだ女の子が 高校1年の入学して間も無い時に白血病を患い 高校2年の時に他界した事による。
日毎にやつれていった「亡き友」を毎日の様に見舞う日々、同時に 入院している級友を日毎に忘れていく健康なクラスメート達… そのギャップが広がっていくのが嫁には許せる事じゃ無かったんだな。
だから、高2になった時、嫁はクラスで完全に浮いていた。
だって、嫁自身が そんなクラスメート達を友達なんて思っていなかったし、時には憎ましいとすら思っていたのだからだ。
セクシ-ボイスアンドロボ 最終話に


転校してきた女の子が ニコと対照的に「私は私」を貫く描写がある。




募金の主旨などそっちのけで、「他のクラスに負けたくない」と強制する募金に ニコは波風を立てないようにお金を入れ、転校生は拒否する…というシーン。
これを見て まさに「あの頃の嫁だ^^;」と思った。
無免許運転の彼氏のバイクの後ろに乗り、バイクごと転倒して怪我をした同級生の女の子に御見舞のカンパを求められた時、「カンパなんかして甘やかす必要なんか無いわよ」とニベもなく断った嫁。
それ以来、彼女はクラスの女子達から「自分の事しか考えない奴」呼ばわりされたのだ。
でもね、そうじゃないのだ本当は。^^;
「亡き友」が入院していた時に 誰一人見舞いにも来ず、そのくせ「亡き友」が亡くなってしまった時に いかにも「仲良しでした」というフリで葬式場で泣いていた同級生達を
「あいつらバットで殴り倒したい」
と、怒っていたのだ嫁は。
だから、私に言わせれば 他の女子生徒の方が「自分本位」に思えたけど、民主主義を多勢に無勢と解釈する多くからは孤立する結果となる。
生きたくても それが許されなかった友人の葬式で とってつけた様に、ともすれば嘘泣きみたいな真似をしている連中が 自分の不注意というかマヌケさで バイクでコケて怪我したからって なんで、可哀相ぶってやらなきゃいけないわけ?… それがその時の嫁の真意なのだ。^^;
本当に友達なら わざわざ友達ぶる必要は無い。
自分の心に嘘を付き、上辺だけ表面を取り繕ってまで 友達のフリなんかする必要なんか無い。
そういう信念が高校2年の時に 嫁に出来上がっていたのだ。
だから、本当に大変だったのは そんな女の子と付き合っていた私だ(ToT)
時には クラスメートの女の子達を「まぁ、まぁ、」となだめ、それでも四の五の言うようなら「虐めるぞコノヤロウ」と 脅し 説得したものだ。
最近、「いじめ」を題材に盛り込むドラマや映画や小説の多くは「孤独」という部分にスポットあてる事が多く 孤独を怖れるが故に徒党を組んだり、個では多勢に立ち向かえないと殻に閉じこもる子供の姿を描く
それに対して私が指摘したいのは ただ、そんな姿を描いただけで「”イジメ”を語った」なんて描き方で終わらせてしまう制作姿勢であり、それらと「セクシ-ボイスアンドロボ」との違う点は ニコという女の子のモノローグによって ニコの内面での葛藤を描くと同時に 一歩も二歩も踏み込んで「こういう考えもある」と一案を示している点にあると私は思う。
私見として私の解釈を述べれば…
本当に大事で必要な存在は 人生の中で数人しかいない。
誰からも「良い人」とか「普通の人」と見られようとしても その為にする努力や我慢は意味が無い。
最低限のマナーを守り、自分に誇りがあれば 必要以上に他人の目を意識したり、気にする必要なんか無い。
誰かから虐められ それに悩んで自殺を考えるぐらいなら、自殺する前に 虐めてくる相手を まず、半殺しにしてみるのも一興と考えてみたら如何だろう?
ついでながら申し添えておくと…
「自殺するんだから 殺しちゃえ」
ってのは駄目だよ^^
それじゃ、相手を簡単に楽にしちゃう事になる。
生きてる方が 楽しい事も多いぶん、辛い事だってたくさんあるのだから、半殺しで生かしておいて 辛さを味合わせてやらなきゃね。^^;
ま、こんな事を言うと「暴力は絶対駄目」という考えの人からは乱暴な意見だと私は怒られるだろうけど、ブタネコは そんな奴なんです。
さて、余計な話はおいといて…

ニコは どうして霊が見えていたんだろう?
霊感話好きの方なら「子供の時はピュアなぶん 霊感が強いのよ」なんて解釈になるのだろう^^;
まぁ、全面的に その意見を肯定する気は無いけれど、少年の心のままのロボには見え続けている…という部分にも その解釈は通じるものがある。
と言う事は、ニコがルリちゃんや三日坊主の姿を見れなくなったのは 心が成長して大人になったからなのか? それともピュアさが欠けてしまったからなのか?
「何が、どのように成長したのか?」
「ピュアの境界線って どこ?」
「セクシ-ボイスアンドロボ」というドラマが 特にニコのモノローグを通して、結果的に視聴者に それを考えさせたのでは無いだろうか?
ゆえに、視聴者は 考える事によって、自分が子供から大人へと変化した時期を思い返し、副産物として その当時のノスタルジィに…
そう考えると、この「セクシ-ボイスアンドロボ」というドラマの制作者達の それが意図か否かは別として 有意義な時間をありがとう そう、私は制作者達に御礼を申し上げたいと思う次第だ。


