● 沖縄シュガーローフの戦い
光人社 作:ジェームス・H・ハラス 訳:猿渡青児 ISBN978-4-7698-1345-3
FORRESTさんお薦めの『ブラッカムの爆撃機』に引き続き「沖縄シュガーローフの戦い」という本が届いたので早速、読んでみた。
この本も FORRESTさん達が主宰されているサイト『MILITARY MOVIE MANIACS』の中のコンテンツである『戦争映画・ミリタリー情報掲示板』の中で紹介されていた記事を拝読したのがキッカケで知ったものだ。
さて、読了して まず感じた事は この書は沖縄戦に従軍した米兵の「生の声」を纏めたものである。
だから、当時の米兵達から見た戦闘前の日本感、実際に戦闘が峻烈を極めた後の、米兵達の日本兵感が生々しく語られ、中には戦場心理を踏まえればさもありなん…という表現もあるけれど おしなべて、如何に日本兵が奮闘したか…をも如実に語っている。
今日、クソ教組や偏向マスコミなどのおかげで すっかり平和ボケしてしまった日本という国において「沖縄戦」について語るのは一種のタブーみたいな扱われ方がある。
にも関わらず、沖縄の米軍基地問題がニュースになると 小賢しいコメンテーター共はこぞって「沖縄の県民感情をもっと大切に配慮すべき」なんて事を言うけれど、それは表面上をデコレートするだけで もう一歩踏み込んだ意見は誰も言わない。
沖縄に限った事では無いが、第二次大戦で戦没した方々への慰霊や遺骨収集や 事実の検証を行おうとすると、ただ それだけで「右翼活動」と批判するバカ者共も少なく、特に沖縄戦においては 守備隊の主力であった陸軍の兵が地元の民間人に対して暴虐な行為を働いた…という事ばかりが前面に掲げられ どんなに慰霊の意だけなんだと主張しても聞く耳を持たぬ輩も多く、触れてはいけないタブーとされていたりする。
ところがね、実際 沖縄に行って地元の人と腹を割った付き合いをし、その上で語る話を聞くと 地元の多くの人は「慰霊」と「暴虐」はキッチリと分けた考えの方が圧倒的多数で マスコミや識者が全国放送や全国紙で述べる「沖縄県民」の感情とは大きな違いがある事に気づかされる。
かつて、海軍守備隊の指揮官であった故・太田実少将が 自決直前に本土に発した電文は(参考記事:『沖縄県民かく戦えり』) 未だに、本土の人々の耳には届いておらず、ましてや 今の県民の実状も きちんと伝わってはいないとすら私には思える。
沖縄に派遣された兵隊の中には 地元県民に暴虐な振る舞いを行った者がいたり、それによる事件があったのかもしれない。
しかし、殆どの兵は 故郷から離れ、沖縄という地で戦い果てていかれたのである。
真面目に戦い、苔むす屍になられた方々への鎮魂を置き去りにしたままでいいのか? 私は ただ、それだけを世に問いたい。
さて、個人的に お恥ずかしい限りだが この「沖縄シュガーローフの戦い」という本を拝読するまで「シュガーローフ」と呼ばれた戦場が沖縄にあった事、そこで どんな戦いがあったのか? それを、今日まで私は正確に知らなかった。
全体的に どれだけの戦死傷者が日米双方にあったのか?とか どういう風に戦闘が変遷したのか?については いろんな書や いろんな方のお話を伺い、一般的にはマニアと呼ばれる程の知識は持っているつもりだったが、それでも「シュガーローフ」と呼ばれた戦場が沖縄にあった事を正確に知らなかった。
で、記述にある従軍兵の証言を目にして 如何に凄まじい戦場だったのかが判り、己の不明をただ恥じ入るばかりである。
数年前まで、私は東京を拠点に債権整理を主とした業務の会社経営者として働いていたのだが、古傷がもとで心臓が壊れ、主治医である友人から「東京を離れて 環境の良いところで静養しろ」と薦められ、役職はそのままに 業務の殆どは腹心の部下達に任せ、いわゆる隠居暮らしへと移行しつつあった時、ある沖縄出身の親子が営み経営不振に陥った会社の再建・整理を引き受ける事になり 沖縄のとある地に数ヶ月、静養と仕事を兼ねて住んだ事がある。
その時、小さいながらも一軒家が管理物件にあったのを幸いに 私は そこに住み、殆ど観光気分でついてきた主治医(二代目開業医)と顧問弁護士(気の弱い弁護士)達とゴルフや麻雀をして過ごしたのだが…
暮らし始めて一週間ぐらい過ぎた頃、札幌から食料などを嫁に送って貰った際に 沖縄では珍しいものをいくつか手土産に 隣家の隠居の爺さんに お近づきの挨拶をしたところ、妙に気が合い その爺さんが、実は息子に後を任せて隠居した漁師で 手頃な漁船を持っており、仲良くなって以降は よく舟に乗せて貰って釣りに出かける様になった。
5月のゴールデンウィークが過ぎたある日、その隣家の爺さんが
「ちょっとした祝い事があって作った料理が余ったから食べに来ないか?」
と、誘いに来たので 私と友人二人は喜んで隣家に御邪魔したところ…
爺さんの友人や家族が大勢集まって 大鍋からすくった汁を美味そうに食べている。
それを我々にも どんぶりになみなみと注いでくれて、
「内地(ナイチャー)には食えないかもしれないけど 試しに食え」
と言う。
それは 沖縄の方なら誰もが知る「山羊汁」である。
独特の臭みのある匂いを嗅いだだけで多くの本州人は食欲を失うのだが…
我々は道産子である。
多少の違いはあるけれど、学生の頃は週に一度のペースでジンギスカンを食べて育ち、今でも ジンギスカンの匂いを嗅いだだけでヨダレが出る^^;
我々の感覚では「山羊汁」の独特の匂いも「ジンギスカンの匂い」プラス「乳臭さ」の匂いでしかなく、何の苦にもならない。
余談だが、道内でも「焼き肉」が美味いと言われている北見や帯広に行くと「乳牛の乳房」の部分を食わせてくれる店がある。
これがね、乳房だけに物凄く乳臭いのだが 食べつけるとなかなかの美味で 我々はそれも食べ付けているから「山羊汁」の乳臭さなどまったく気にならず、沖縄独特の香辛料の風味も相俟って とても美味しく食べたのだが…
その食べっぷりが、隣家の爺や集った人々には「コイツらは普通の内地人とは違う」と判断されたらしく それ以来、腹蔵無い付き合いをしてくれる様になった。^^
で、友人であり顧問弁護士である「気の弱い弁護士」が 特にその「山羊汁」の美味さに感激し、隣家の爺さんに「もう一度食べさせてくれ」と懇願したところ、その爺さんの話では「山羊汁」ってのはお祝い事があった時に振る舞う特別な料理で そう簡単に作るもんじゃ無いのだと言い、でも、近々 別の知人の処でお祝いがあり、そこで山羊汁を振る舞うはずだからオマエ達(我々)のぶんも頼んでやると言ってくれたのだが…
その時に、爺さんが
「変わりと言っちゃナンだが、もし可能なら ひとつ頼みをきいてくれ」
と言う。
で、何?と聞いたところ…
「三重の方に”赤福”って饅頭みたいなモノがあるらしいんだけど
オマエ達の中に三重の方に知り合いが もし居るのなら、その”赤福”とやらを取り寄せてくれないか?」
と、言った。
そんな頼みは簡単な話で その時は二代目開業医が大学時代の友人で三重で医者をしている奴に すぐ、その場で電話をかけて 数日後には”赤福”がミカン箱一杯に詰められて送られてきた。
隣家の爺さんは 届いた「赤福」を ひとつ、ふたつ…と頬張って
「へぇ… これが、赤福か…」
と、微笑み
「暇なら ちょっと、ドライブに付き合え」
と、いきなり言い出し… 爺さんの案内で行った場所は那覇市の外れの住宅街
変哲の無い住宅が建ち並ぶ路地裏で 爺さんは我々に車を停めさせると ヒョコヒョコと民家の石壁の脇にしゃがみ 赤福を一箱と 水筒から紙コップに注いだお茶と 箱から一本抜き出して火をつけたタバコを供えるように置いて 長い時間、手を合わせている。
後で聞いた話によると 爺さんは少年兵として現地徴用され、沖縄戦に従軍し 主に陸軍司令部伝令として 激戦により、通信手段が途絶した司令部と前線の間を何度も走って往復していたのだそうだ。
その時に、直属の上官が いよいよ玉砕か…という時に 沖縄本島北部の部隊への伝令を爺さんに命じたそうなのだが、その頃は戦局末期で 沖縄本島の中央部は米軍に占領され、軍の主力は南部に集中して転進し、北部の部隊へ伝令に行くのは死を意味する程、危険な事だったのだが、その上官は爺さんに
「この伝聞は 非常に重要な内容だから、どんなに時間がかかっても構わないかわりに、絶対に敵軍に奪われてはならないぞ」
と、命じたのだそうだ。
爺さんは その命令を忠実に守り、「敵(米兵)に見つからないように…」と心がけているうちに いつしか沖縄戦は終了し、北部に辿り着いた時には部隊は霧散していたのだそうだ。
そのおかげで爺さんは生き延びる結果となったわけだが…
爺さん曰く、
「後になって考えたら、ありゃぁ 上官が俺を助けて 生かしてくれようとしたとしか思えないんだ」
以来、その上官が爺さんにとっての命の恩人となったのだが、人づてに上官は爺さんを伝令に出して間も無く戦死を遂げ、その場所は定かでは無い。
だから、爺さんにとって 上官への弔いを捧げる場所は、命令を受けて最後に分かれた場所、つまりは その今では路地裏になっている場所なのだそうだ。
「上官や仲間と掩蔽壕に隠れてる時に 四日市出身の上官が”赤福”を もう一度、食いてぇ…って よく言ってたんだ。
だから、これがせめてもの恩返しで それが、ようやく出来たって事さ」
成る程な… そんな話なら、恩返しの手伝いが出来て我々も嬉しいよ。(ToT)
「ここは激戦場でな 死体もゴロゴロ転がってて、夜になると敵か味方か判らないぐらいだったんだ…」
今では閑静な住宅街が その昔、そんな場だったとは…
関ヶ原とかね、戦国時代の古戦場跡にも 色々と訪ね歩いたこともあるけれど、たかだか数十年前の激戦地が 今は そんな名残もとどめず、平和で閑静な住宅街に変貌している様を見て 我々は、それを想像する事が出来なかった。
それ以降、暇をみつけては 爺さんの案内で沖縄県内の戦場跡を巡り歩いた私達だったわけで… そういう生の声を聞き、その地を巡ると 私の様な者には(別に私は霊能力者じゃないけれど)苔むす屍となった声無き声が聞こえる様な錯覚に陥る。
故・太田司令官が自決した司令部壕には 今でも手榴弾の破片の跡や、血の染みが残ったままの遺品が展示してあるのだが、それを本州から来た観光客が
「なんか、薄気味悪い~」
なんて言ってるのを見て、性格が変わるぐらいに殴り倒してやろうか?という衝動に襲われたことも一度ならずある。^^;
今回、「沖縄シュガーローフの戦い」を読んで”シュガーローフ”と呼ばれた丘が 上の地図の中央にあるマークのあたりだった事が判ったが、あらためて この地図を見ていたら、かつて爺さんに連れられて行った路地裏が「おもろまち駅」を挟んで 上の地図中央やや右の辺りだと判り、本の記述によると「ハーフムーン」と呼ばれた丘の東裾だった事も判った。
で、試しに上の地図の右上「航空写真」という部分をクリックし、今の様子を御覧になってみる事をお薦めする。
60年前、この狭い地域で 僅か1週間の間に日米双方合わせて莫大な戦死傷者が生じる程の激戦があった… それを念頭に置いて、航空写真で60年後のその地を眺めて頂きたい。
