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2007年02月20日

● 座頭市


2003年に公開された北野武:監督の「座頭市」に関し イエローストーンさんより 先日、興味深い問いかけを頂戴したのをキッカケに 今回、腰を据えて観た。^^




そのキッカケとなった イエローストーンさんの記事は『北野版「座頭市」の主観ショット、市は見えているのか? (再追記)』という記事。


ここで、先に申しあげておきたい事は 私は「子母澤寛」の書いた原作を読んだ事が無く、私の記憶の中に定着している「座頭市」とは 勝新太郎が演じた「座頭市」シリーズで、シリーズ中の作品全てを観たわけでは無いが、相当数は かなり昔に観た記憶がある。


なので、私の頭の中には 勝新の座頭市が固定概念として有る状態だから「座頭市は盲目」という認識で 北野版「座頭市」を観た…という前提である事を御理解願いたい。


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で、『北野版「座頭市」の主観ショット、市は見えているのか?』というイエローストーンさんの問いかけに対し、事細かに愚見を呈示するには 相当のネタバレとなる事も ここで申し上げておき、映画を まだ未見の方は、以下の記事を読まずに 映像を先に観る事を強くお奨め申し上げておきたい。


と、同時に 以下に述べる事の内容・記述表現には、もしかしたら、目の不自由な方に対して 差別や侮蔑に受け取られてしまうんじゃないか?と心配でならず、私(ブタネコ)としては 差別や侮蔑という意味を込める気は毛頭無いという事を先に申し上げ、どうか御理解願える様、乞う次第。




<< 以下、本文  >>----------------------


さて、結論から先に言えば、私は「北野武」は「座頭市は 本当は目が見えていた」という解釈で作品を描いていると この作品を観て私は感じた。



  悪の親玉が、「見えるのか?」

  市、「そうだよ。このほうが都合がいいんだ。」

  このような主旨の発言があった。


              (イエローストーンさんの記事から引用)



このシーンのやりとりにより「北野の座頭市は目が見えてたんじゃん」と言う人も多かろうし、その言葉の上っ面だけを受け止めて「見えていた」と考えるのであれば、話は それまでだし、愚考する意味も必要も無い。^^;


けどね、そんな理由での結論では 私には 上記台詞の中に込められた意味こそを「見えない」のではなかろうか?と愚考する。^^;


「子母澤寛」の原作で それがどう描かれているのかは知らないが、私の知る限り、勝新太郎の座頭市は盲目として描かれており、であるが故に、「座頭市=盲目」と多くの方が認識しているはずであり、その上で、盲目であるにも関わらず、凄まじいまでの居合いの腕を見せ 敵をバッタバッタと切り捨てる殺陣の凄みに酔わされ ある意味、それが「座頭市」の魅力のひとつでもあったのだ。


が、勝新の座頭市が全盛の頃「本当は見えてるんじゃないの?」とか「見えないのに あんな殺陣が出来る事自体 嘘臭い」という疑問や批判が よく交わされたものでもあるけれど、当時の風潮から「そんな事を言うのは野暮」とされたものだ。^^


で、今回の北野版における「実は見えていた」という解釈は ともすれば、殺陣がどうこうという部分だけに注目が集まって「見えていた」「見えていない」と論議されるのかもしれないけど 私に言わせれば 殺陣の問題など どうでも良い事だと思うのね。^^


つまり、北野武の解釈は もっと、別の部分への布石として用いている様に私は感じたからだ。


たとえば、作品の冒頭…


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農夫達がふるう鍬の音が リズムとなり、音楽に聞こえるシーンがある。


もっとも、この農夫に扮している人達は 元々が そういうパフォーマンス集団なんだろうから 鍬で奏でる音の 単なるパフォーマンスと受け止められてしまってると思うのだけど…


私は、この場面が 北野版「座頭市」における ひとつの「キモ」だと思うのだ。^^


つまり、人間の持つ五感のうち 視覚が失われてしまった場合、それを補う為に 他の感覚が健常者より発達する(鋭くなる)と私は思う。


ゆえに、それが もし聴覚の発達だとしたら、農夫がふるう鍬の音が リズムとなり、音楽に聞こえる事があるんじゃないか?という具現を パフォーマンスを利用して表現しているんじゃないか?…って思うのだ。


通常、人は 目で見た映像で 時には無意識にいろんな事を判断する。


農夫が畑で鍬をふるっているのを見れば「あぁ、畑を耕しているんだな」と理解し、その場合 鍬が耕す音は その理解を補強している情報に過ぎない。


けれども、先天的に目が見えない人にとっては 鍬も農夫も畑も 映像としての認識が無い。


極端な事を言えば、鍬の音も 楽器が奏でる音も 目で見た映像という情報が無ければ 畑仕事か演奏なのかの違いが経験や知識を重ねないと区別出来ないかもしれないわけで それを目で見た映像無しで判断できる様になるには 視覚以外の感覚が健常者よりも発達していると思うべきであり、その上で もうひとつ理解すべき事は 視覚が無いという事は 物事を判断する際に「目で見た」情報無しで判断する…という点にある。


でね、ここで ひとつ考えてみたいのは、武道において「心眼」というモノを 時に、重要視する…という事。


「心眼」とは 心の目によって真実を見抜く事。


つまり、目の前で見えている事だけを事実と捉えるのでは無く 音や空気の揺れなど気配で察する事でもあり、剣の世界では特に 相手の動きの先を読む上で重要視されていたりもするわけで…


浅野忠信が演じる浪人も 剣の腕は凄腕ではある。


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だからこそ、相対した座頭市の剣の握りを見て


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「おそらく 市はこう動くから 自分は…」と、動きの先を読み


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読み切ったと思い込み「勝てる」とふんで「ニヤリ」と笑う


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ところが、座頭市は それを見越したかのように持ち手を変え


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不意を突かれた浅野は顔色を変えるが


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時既に遅し…


これも「見た目」の情報だけで騙された 良い例と言えよう。^^


作品中で座頭市が語る「そうだよ、このほうが都合がいいんだ」という言葉の意味としては この様に「剣の腕(=殺陣)」という意味で とても説得力があり、であるが故に どうしても「殺陣」ばかりに目がいってしまう。^^;


けど、私が北野武監督の本当に込めた意図と指摘したいのは 上述した「殺陣」だけの話では無く、一見、なんでもない「居酒屋」の人々が実は… と言う部分を「座頭市」が見抜いたのも「心眼」だ…という事。


つまり、「目に見える事」だけで判断すると「居酒屋の老いぼれ」でも、「心眼」では「怪しい奴」に映った…って事で 思うに、座頭市という人物は 世の中の多くの事を信用していない、もしくは疑ってかからないと生き抜けて来れなかった男であり、生きていく為には「心眼」こそが支えと信じている男


もちろん、「目が見えない」按摩として歩く事で 多くの人々は侮ったり、馬鹿にしたり、舐めてかかったりする…というのも「敵を欺くには…」という意味で 座頭市には「都合がいい」


けど、それ以上に「鋭い心眼」を鍛え維持するには「目が見えない」方が「都合がいい」って事でもあるんじゃなかろうか?


ラストに 座頭市は石に躓き



  「いくら目ん玉 ひんむいても 見えねぇものは見えねぇんだけどなあ…」



と、語る。


これこそ、北野流解釈の締めの言葉だと私は思う。


見た目や、噂では「立派な人」「真面目な人」と評されていても 陰で悪どい事をやってる人物は 実際に少なく無い。


「一流企業」と言われている会社でも「欠陥を公表していない」とか「賞味期限を誤魔化していた」なんて事もある。


「天下のxx新聞の記事だから…」と丸呑みして信用していても 実は盗作だったり、事実誤認だったり、思想的に片寄っていたりもする。


そういう事柄に対する 北野流の風刺が


   「いくら目ん玉 ひんむいても 見えねぇものは見えねぇんだけどなあ…」


っていう風に 私には感じられたのだ。


さて、この記事は イエローストーンさんの問いかけに対し応える…という目的もある。


だから、以下に述べる事は ブタネコの個人的意見で 決して イエローストーンさんへの批判を意図するつもりも全く無いよ…と、前置きして(臆病なので^^;)述べると…


北野武が描いた座頭市は「目が見えている」だけでは無く、普通じゃ見えないモノまで「見えている」と私は感じました。


なので、「主観」や「客観」というカメラワークにだけ拘ると 本当に見るべき(気づくべき)部分が見えなくなってしまうんじゃないか?と愚考します。^^




さてさて、北野映画を見る時 つい、習慣となってしまった事に「大杉漣」「寺島進」「津田寛治」の姿を探す事がある。


で、この「座頭市」には「津田寛治」のみクレジットがあるのだが…


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まぁ、今回も ワンシーンのみの判り難い場面だったが みつけたので貼っておく。^^




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コメント

ブタネコさん、こんばんは。
早速のお応え、本当にありがとうございます。

なるほど、深いですね! 

私はやはり、映画を鑑る上で、どうしてもまずは画とストーリーをみてしまいます。そして主役を。
そしてあくまで好みかどうかで記事をかくので、私のは映画評でなく、私的感想なんです。
いきなり脱線気味ですが、つまり今回も疑問の発端もそうであるように、私の場合はやはりあの主観ショットが疑問だったのですが、つまり、盲目者の主観ショットとは、私の画に関す概念ではありえなかった。いかがなもんかと・・・、しかし、いや~、なるほど。深いですね・・・。

武道においての「心眼」!それはありますねぇ。たしかにブタネコさんが記事にかかれていることを思うと、セリフの重みを感じてきますね。そして居酒屋の老いぼれの件など、その内容も。その為にあえて目をつぶる、心眼で見る。なるほど。


私も今の段階では“見える”と思っています。これはブタネコさんほどの深いところの理由ではありません。
やはりあの主観ショットが発端ですが、最後のこけた時のセリフ。あれがどっちにもとれるのですが、私は何度聞いても、目が見えても、実際には見えないものがこの世にはある と聞こえるんですよね。

ただ私も勝新の座頭市をけっこう見ているので、市は当然、盲目。だからショックだったんですね。

う~ん、私も、もう一度再見する必要がありそうです。

いや~、ご意見とても参考になりました。問いかけしてよかった。ありがとうございます!

★ イエローストーン さん

勝新を見た世代としては「見えていた」と解釈するには それだけの説得力を伴わないと納得出来ませんよね^^
それと、市の二つの台詞が無ければ「見える」「見えない」の議論が もっと熱を帯びる様な気がします。

私は その二つの台詞が無くても たぶん、私の解釈は同じ結論になった様な気がしているのは やはり、鍬の音ですね

実を言うと 鍬の音の考察は、ある意味 全部見終えてからのコジツケと言われても仕方が無いのです。^^;

でもね、見終えて「あれ?」と思って もう一度見直した時、「雨音はショパンのしらべ」という言葉が頭に浮かびました。

そう、雨音でも 聞く人によってはショパンの音階に聞こえるのかもしれない…

例えは悪いけど、もし、生まれつき目の不自由な人が「ビンタ」を知らずに育ったなら 誰かが誰かに往復ビンタされている音も、時と場合によっては「三三七拍子」に聞こえるかもしれない… そんな事を連想し、「あ?」と思ったのです。 (なんか、意味が違いますね^^;)

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