● 悪魔の手毬唄 考
最初にお断り申し上げますが、この記事文中には「悪魔の手毬唄」のストーリーにおけるネタバレが多く含まれています。
私としては 多くの方々に「横溝ワールド」を堪能して戴きたいと願っておりますので この記事の本文は原作「悪魔の手毬唄」を読んでいない方は どうか先に原作を購読の上、御一読頂いてからにして頂きたいと御願い申し上げます。
さて、このような記事を書こうと思った私の動機は
● めとろんさんのブログ『めとLOG ~ミステリー映画の世界』
● イエローストーンさんのブログ『取手物語~取手より愛をこめて』
という二つのブログで 時々、横溝関連の記事が掲示され それが実に興味深い記事が多い^^
かねてより私は
● HAZUKIさんのブログ『葉月亭』
の主宰者であるHAZUKIさんをはじめ、このブログにお越し下さる横溝ファンの方々と「横溝ネタ」で交遊させて頂いてきたわけだが…
御三方のブログで 横溝正史に触れられている記事を拝読し、本来は ネタバレ無しでの記事を心がけてきた為に 今一歩、踏み込んだ表現を用いれなかったジレンマが 正直言ってあったので、ここらで少し それをお許し頂いて持論を述べてみたくなったからです。
さて、横溝正史の金田一耕助シリーズを ひと通り愛読した方々に
「貴方が選ぶ ベスト5はどの作品ですか?」
と、もし尋ねたら 数多の作品群の中から いろんな作品を挙げる結果になると思われるが、「ベスト5」が もし、「ベスト3」だったら?
勝手な私の想像で申し訳無いが「獄門島」と「悪魔の手毬唄」は 殆どの人が無条件で挙げ、残りの一つが「犬神家の一族」や「八つ墓村」「本陣殺人事件」など どれにしょうか悩むのではなかろうか?
本来、作品群の中で「ベスト5を挙げよ」なんて事じたいが野暮なので「どれがベスト5か?」について語り合いたいとは思っていない。^^;
私が申し上げたいのは「ベスト3は?」とファンが問われたら 「獄門島」と「悪魔の手毬唄」を 殆どの人が無条件で挙げる… その理由に関する考察なのである。
実は 冷静に考えたとき、「獄門島」と「悪魔の手毬唄」には多くの共通点がある。
連続殺人事件の背景に 俳句と童歌の違いはあれど、どちらも「見立て殺人」で 3人の被害者も女の子である。
隔絶された島社会と閉鎖的な村という背景にも似たものがあり、事件の背景には10数年前からの流れがあり、系譜という背景も重要なファクターとなっている。
ゆえに、アンチ横溝的な人に言わせれば
「獄門島がウケたから 似た様な話の悪魔の手毬唄で 柳の下のドジョウを狙っただけの事」
等という評がある。
けどね、私には そのアンチ意見は説得力を感じない。
何故ならば 似てると言われればそれまでだが、「獄門島」と「悪魔の手毬唄」のそれぞれには 確固たる説得力が それぞれにあるからだ。
生まれて始めて「獄門島」を読んだ時 何故、死体の発見現場の惨状が俳句の見立てになるのか? ただ殺すだけじゃダメなのか? そんな私の疑問を吹き飛ばす 横溝正史が仕掛けたプロットには説得力が充分過ぎるほどあった。
成立するはず無いと思われた3つの前提条件が揃ってしまった時、実行犯は その偶然に怯える。
その結果、成立したはずの前提条件のひとつが嘘だった事を知り、より以上の罪の深さに言葉を失い 実行犯は精神的にも罰を受ける。
そして、悪魔の手毬唄では 同じ様に3人の女の子が連続して殺害されるが その動機の根底は「獄門島」とは全く違い 解釈や視点を変えると、ある人物の生まれながらにして身に纏ってしまった不幸と その責に悩む母親の情… それが全て人間の業によるものと思うと 実に無情なものだと涙さえこぼれる。
私は「悪魔の手毬唄」を生まれて始めて読んだ後、どんなに良い人間と言われている人でも ひとつやふたつ 心には傷があるものだ…という事を知った。
しかも、それが「傷」程度に言えるぐらいのものならば まだ、良いが、中には どんなに親しい友人や家族にも言えない内容である事も珍しくは無いのだ…と。
磯川警部は青池リカを愛するが故に 彼女の亭主殺しの未解決事件を定年前に果たそうとし、金田一に助力を乞う
なのに、その結果は…
事件が終わった後の 磯川警部の焦燥感たるや想像を絶する。
殺される3人の女の子達… 彼女達自身には殺される理由が無い。
しかしながら、犯人の動機を考えた時「う~む」と 認めたくはないけれども、でも なんとなく判るような気が…と思ってしまう。
特に 登場人物の中に「里子」という少女がいる。
私は「悪魔の手毬唄」を思い出すたび この「里子」を同時に思い出す(連想する)
横溝ワールドには いろんな登場人物がいるけれど、それらの中で 私は「悪魔の手毬唄」の「里子」が 最も印象深く感じているキャラクターの一人なのだ。
文末に 金田一耕助が この里子の想いを代弁して語る場面があるけれど、そこで語られる里子の想いは なんか、物凄く切なくて なんと良い娘なのだろうと憐憫の情なんて言葉では表現できないほどの愛おしさを感じて仕方が無くなり… だから、ついつい その記述を読むと涙が出る。
悪魔の手毬唄を映像化しようとする多くの制作者は「峠のおりん」や「影絵」など そのドラマチックでかつ、ホラーっぽい場面ばかりに熱がこもってしまう傾向がある。
しかし、それも横溝正史の読者に対する ある種のトリックであって、実は 登場人物達のキャラクターを際立たせる描写や 心情をくすぐる文章表現により、尚更ドラマチックに映るだけの事で 演出効果でどうこうできる問題とは違うのだ。
正体不明の胡散臭い老婆と 薄暗くなった峠道で擦れ違う… 確かに、そう言う場面は想像するだけでも不気味に感じるけど、本当はそこが怖いのでは無い。
実は その老婆が… 後になって その正体や、何故擦れ違ったのか? どうして? その部分の真相を知った時に 真の意味で「ゾゾッ」と背筋が凍るのだ。
つまり、最初に原作を読んだ時 その「峠のおりん」のシーンは確かに怖かった。
けど、終盤になって「実はおりんが…」と判った時、金田一耕助が味わった「ゾゾッ」と同じ「ゾゾッ」を読者も味わう それが、横溝正史の余人が真似できない文章表現力の妙なのだ。
ところが、それを理解出来ないまま 安易に映像化しましょう…なんて制作者だと 後からの「ゾゾッ」には無頓着で 如何に峠のシーンを不気味に見せるかばかりに終始する。
でも、市川版は そこもキチンとおさえてくれた。
「ゾゾッ」としながらも キチンとおさえてくれた制作に涙が出た…というのが本心だ。
峠のおりんは 峠で金田一と擦れ違い、その足で放庵を訪ね、放庵を毒殺する。
つまり、金田一が擦れ違ったのは 単なる胡散臭いババァでは無く、これから確信的に人を殺しに向かう途中の犯人だったわけだ。
よく 横溝ワールドは「おどろおどろしい」と表現される。
今風に簡単に言えば「おっかない」って感じの表現なのだが、たしかに重厚でホラー感たっぷりではあるのだが、作品のつど(多くの場合)ヒロイン的存在、そして犯人、時には関係者の一部に とてつもなく読者として情が惹かれるキャラが存在する。
例えば、それが何人もを殺した トンでもない犯人の場合でも、なんとなく心情にほだされてしまう… そんな作品がある。
最近の推理小説の場合、犯人の動機は ひどくエゴの塊だったり、精神的に壊れていたり、ついヤッチャッタ…みたいな衝動殺人というケースが多く、説得力のある「怨恨」的動機が薄い、その上 犯人が判り動機の解明…となった時、犯人に対しては「そんなクソ馬鹿野郎だったのか?」みたいな読後感で モヤモヤ感がつきまとう。
横溝作品の場合、読後 けっしてスッキリするわけでは無いけれど それはモヤモヤ感とは全く違って、「何か」を考えさせられたり 世の無常に切なくなるのが殆どなのだ。
で、「悪魔の手毬唄」の場合…
「おどろおどろしい」雰囲気を醸し出した「峠のおりん」であるにも関わらず、その後3人の女の子を殺し、それぞれを手毬唄に見立てた姿に変えた犯人でさえあるのに、事件後 どうして その犯人を憎みきれないのだろう? いや、憎む気持ちが沸かないのであろう? そこが横溝ワールドの醍醐味だと私は思うのね。
これを ただ、「おどろおどろしい」ばかりの雰囲気だけにこだわれば どうやっても犯人への情は薄くなるばかりなのは自明の理だが、そうならないのは何故なんだろう?
要は そこに至る過程での犯人の辛さや苦しみが、まず 痛いほど読者に伝わっているからであり、その描写に 物凄く説得力があるからなのだ。
つまりは、映像化する際に「尺の問題で…」という事情でカットされる部分に その横溝の絶妙な仕掛けが数えきれず埋め込まれているにも関わらず、「ま、いっか」みたいな安易さで削られてしまうから 殆どの映像作品はツマラナイものにしかならないのだ。
ゆえに
「獄門島がウケたから 似た様な話の悪魔の手毬唄で 柳の下のドジョウを狙っただけの事」
と、単純比較でしか批判できないアンチに対して 私は その読解力の乏しさを鼻で笑うばかりである。
ちゃんと読み比べれば 全く違う「何か」を考えさせられる作品だと気づくはずなのだ。
その上で、伊達や酔狂で多くのファンが 並び立てて「傑作だ」と評しているわけじゃ無い事に気づくはずなのであり、気づけないのは 己が如何にアホかを嘆けばいいだけの事。
以前、いくつかの記事で書いたけど 私は学生の頃、横溝作品を一冊読み終えるたびに その作品の舞台となった場所にいつかは行ってみたい…というのが夢だった。
それは後年、実際に実現し「悪魔の手毬唄」に登場する鬼首村も 架空の村とは言え小説上の記述に従い おおよそ、この辺だろうと勝手に推論して行ってみたモノだ。^^
その時、起点となる総社から 徒歩で歩き、峠を越える…
実際に、この真似をしてみて判ったのは 当時の人が如何に健脚だったか…と身にしみて実感した。
でも、それが当時としては当たり前だった…と考えれば 金田一が総社に行き、神戸に行って情報を集め 証言を確認してくる… その作業が実に時間と労力の必要とされる作業だったかが判る。
けどね、今年の初夏 あらためて岡山に行き鷲羽山や総社を巡ったが、横溝作品に流れる時代背景や環境は おそらく、今の若者 特に子供達には想像すら出来ないだろうなぁ… 実際に町並みや風景を見て そう思った。
「歩いて峠を越えて 隣町に行く…」
今の時代に そんな真似を想像しろと言っても無理でしょう^^;
弁士が語る無声映画…なんて 判らないだろうし、副業でモール作り…なんてのもリアル感が無いでしょう^^;
そういうのを考えると 横溝ワールドに流れる「情」も いつしか誰も理解出来ない「情」になってしまうのかもしれないなぁ…
そう思うと、今の なんだか殺伐とした世の中が その兆しに思えるから寂しい限りである。
