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2006年05月26日

● 砂の器


1974年に公開上映された映画「砂の器」について語ってみる。




砂の器

私は 何度か、このブログ内で松本清張を批判もしくは卑下する事を述べた事がある。


それは 松本清張を主とした「社会派推理小説」と呼ばれるジャンルに異議、もしくは疑義を挟む場合に代表格として 松本清張や彼の作品を挙げたに過ぎないのだが、世の中には「松本清張ファン」なる方々がおり、それらの方々には 私の能書きが快くなく響いてしまうわけで、先日 ある方より、「批判するなら きちんと作品を見てからにしろ」と言われたものだが…^^;


私は 何も読まずに批判するほど無礼な真似をしたつもりは無い。


「砂の器」や「点と線」など ちゃんとそれなりに評価もし、このブログ内で そう述べた事もある。


さて、松本清張と同じ様に 映画監督:野村芳太郎についても 私は批判した事がある。


それは 私の敬愛する横溝正史の「八つ墓村」を 彼の独自の解釈とやらでクダラン映像にしてくれたから批判したまでの事。


で、奇しくも その松本清張の原作を 野村芳太郎が独自の解釈で映像化したのが この「砂の器」である。


率直に言って、私にとって この「砂の器」という作品は 私なりの理由で心に残る映画だとは思っている。


しかし、「良い作品」「素晴らしい作品か?」と問われれば 一般の感想とは微妙に違う。




さて、近年 SMAPの中居が主演で この原作はTVドラマ化された。


それを私は見てないので そのドラマの内容については言及しないが、その流れと もうひとつの理由により この「砂の器」が 静かなリバイバル・ムードになっているのだそうだ。


確かに、一見する価値のある作品だとは思う。


けどね、正しい認識の上で観る事… それを私は危惧し、警鐘したい。


と言う事で、以下に述べる事は ブタネコの私見であるから その辺を踏まえて御一読願いたい。


物語は ある殺人事件に端を発し、


砂の器

ベテランの鬼刑事(丹波哲朗)と 若手のハリキリ刑事(森田健作)がコンビを組んで事件を追う。


ヒントは東北弁の「カメダ」


砂の器

砂の器

砂の器

砂の器

この二人の刑事が旅して歩く背景の映像は まさに1970年代の日本の景色で とても綺麗に撮影されており、旅情や郷愁を掻き立てられる。


このように、「背景」という部分での映像は さすが「野村芳太郎」と思う。


砂の器

JRではなく、「国鉄」の食堂車のウェイトレスのこの制服を見ただけで とても懐かしさで一杯になる… そんな世代なのだ私は^^


さて、ここで最初の問題を提起しておくと…


原作では 重要容疑者に二人の刑事が辿り着くまでのプロセスがいくつかある。


しかし、映像には そのプロセスの多くが削られ、ともすれば 最初から犯人ありき…みたいな脚色となっているのが 落ち着いて見直すとイタダケナイ。


面白い原作を映像化する際、その原作の どの部分が面白いと感じるかは人それぞれではあるから、その面白さを根本に余計な部分を削って 約2時間という尺の中に納めようとする。


砂の器

重要な事は その時間内への「取捨選択」による作業を行う時に 映像制作者は本当に その原作を味わい、「何が」面白い部分なのか ちゃんと踏まえているのかな? 客が そう思ってしまう時点で 制作者の「負け」とは言えないか?…って事を考えてみて欲しい。


というのは 作品の本当の評価を決めるのは 制作者でも評論家でも、上映する映画館の小屋主でも無く、観客なのだ。


そして、話題になった原作であればあるほど 原作のファンが その観客の中に多く含まれているのだ。


だから、原作をいじって脚色した結果は 原作ファンの許容範囲で「面白かった」という評価に過ぎず、「凄ぇ面白かった」と言わせるには 原作ファンを唸らせるぐらいのいじり方をしてくれないと そんな評価はしてもらえない。


それは新進気鋭の若手監督であろうと 評論家達に評価の高い大監督であろうと同じ事。


で、私が思うに…


この「砂の器」という映画を「傑作だ」と評価している人の多くの理由を注目してみると その多くが高く評価しているのは 劇中で用いられた


砂の器

「芥川也寸志」の「宿命」という交響曲の素晴らしさと 物語の盛り上がりと共にアップダウンがキッチリとハマった見事さを挙げる。


これは本当に素晴らしい 私も、そう思う。^^


特に、


砂の器

劇中に重要なファクターとして登場する親子が


砂の器

いろんな地を旅して歩く姿と 捜査会議の席上で丹波哲朗が 訥々と語る捜査結果のシーンと もうひとつの 3つのシーンが交互に切り替わりながら描くバックに流れる音楽が とてもハマって泣けてくる。


この親子の部分をメインのファクターに突出させたのは脚色上の成功だと言えるから、そこに感動した人の多くが「砂の器は傑作だ」と評する。


でもね、ここで重要な事の扱い方…


そこを制作者も そして観客もおざなりにしてしまっている。


それは「ライ病」とか「ハンセン病」という病気と その患者や家族が受けた悲劇という部分。


1943年に 最初の治療薬が発見されるまで この病気は「遺伝病」とか「感染病」として患者は ただ隔離されるにとどまらず、忌み嫌われ 差別の対象とすらなった事は 医学の進歩と偏見による 重要な事例として大いに反省し、踏まえるべき問題なのだ。


平成8年に「らい予防法の廃止に関する法律」によってようやく 国が患者を差別の対象とするかの如き悪法が廃止され、平成13年に 厚生省、国会の責任を認める有罪判決が下った事は記憶に新しい。


で、この「砂の器」の場合 公開年度が1974年という事もあり、当時の風潮の中で この病に関して正しい認識がなされたわけでは無く、まだまだ偏見意識や間違った認識が蔓延っている時期 その時に、「この病を物語の”お涙頂戴に利用した”」という見方をする人も 実は少なく無い。


そう、昔は「ライ病患者」として忌み嫌われたばかりに 定住できず、国内を放浪していた患者が少なくなかったのだ。


公開された1974年の頃は そういった放浪患者はかなり減ってはいたけれど、その記憶を宿した人は多かった時代で この映画で そんな偏見が増えたり減ったりしたわけでは無いだろうけど それらを除こうとする描き方では無く、「この病を物語の”お涙頂戴に利用した”」という見方を 私も否定する事が出来ないんだなぁ…。


だからね、犯人が犯行をおかした理由・動機を考えた場合に その重要な部分を踏まえずに「同情して泣きました」という感想を簡単に述べる人も多いけど


砂の器

単純な「物乞い親子」としてしか見ずに同情したのでは意味が無い。


砂の器

このシーンに秘められた重要な意味を理解せずに「感動して泣きました」なんて安易に言ってのけるるアホは 上辺でしか物を語らないと同様なんだと思うべき…って事。


つまり、ライ病とかハンセン病という病気に対して偏見が蔓延っていた1974年という時代に 親子が物乞いして放浪して歩かねばならなかった理由、離ればなれに引き離される理由… それが、側面的に見れば「ごく当たり前の理由」として描かれた様に見える この「砂の器」という映画に対して腹立たしく感じた人も少なく無かった…という事を知っておくべきだと申し上げたいのと、そういう腹立たしさを感じる人がいる事を充分に承知しながら、その重要な点を 松本清張も野村芳太郎も きちんと描かず、ともすれば蔑ろにしている点は やはり、この両者に対して私は好意的な事を言う気になれない理由ともなるのだ。




で、「砂の器」という言葉をキーワードにして検索してヒットしたHPやブログを拝読していると、思いの外「竜飛岬」という地名が登場する。


そう、この「砂の器」という映画は 青森県の竜飛でクランクインしたのだそうだ。


以前、別の記事で述べたが 私は この竜飛という土地に縁がある。


撮影した時期は知らないけれど 映像を見ると「あぁ…」と懐かしい場所が目に映る。


砂の器


例えば、このシーンの場所は間違いなく

青森県東津軽郡外ヶ浜町字三厩梹榔 (Sorry, this address cannot be resolved.)

「青森県東津軽郡外ヶ浜町字三厩梹榔」という場所で

「梹榔」と書いて「ひょうろ」と読む


今では もっと立派な道でトンネルになってるらしいが、私の知ってる竜飛の冬の景色がまさにこれで^^

砂の器

砂の器

これは梹榔の近くの 鎧島やミサゴ島と呼ばれた場所の辺り 


砂の器

ここは 記憶がおぼろ気なんだけど 竜飛の帯島の裏の龍神を祀った祠だったと思うし…


砂の器

これは竜飛小学校のグランドの横にあった墓地だと思う。


私としては 上記のような昔の竜飛がみれるだけで 充分に「砂の器」は記憶に残る映画なんだけどね、これは 本筋の理由とは違うので置いておく^^;


いずれにせよ、この「砂の器」という作品が名作だったと評価するとしたならば、それは松本清張や野村芳太郎に対する賛辞では無い。


私に言わせれば 芥川也寸志の音楽と、


砂の器

加藤嘉の演技と


砂の器

緒形拳の 特に上の場面の演技が 実に素晴らしかったから。


そこを強調したいと思うばかりだ。



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コメント

私はこれ、映画が先なんですよね。
しかもずいぶん若い時に観た様な・・・
この映画で「ライ病」という病気を知ったと思います。
なので、ブタネコさんの様な考察は持っていませんが
素晴らしいと思った点は大体同じだと思います。
緒形拳だったんだ・・・
そして音楽。たまに「ひまわり」の主題曲とごっちゃになります。
(ちなみに「ひまわり」も私は世間で言うほど名作だとは思えず、ただただ、曲の素晴らしさが残るのみでした。)

私は松本清張は面白いと思ってよく読んだもんですが、映画が先だったせいか、これに関しては面白くは無かったですね。
「ライ病」の事なんて殆ど出てこなかったような気がしますが・・・

★ うごるあ さん

私は 映画の方が原作より面白かったと感じています。

というか、原作に関しては 騒ぐほど名作か?と疑問すら抱きます。

映画で 良いと思った点は記事に記述した部分で これって原作の話とは 殆ど関係ないぶぶんばかりなんです。

でね、いま 書棚を探してみたんだけど 砂の器の原作が見当たらないので正確に断言は出来ないけど 原作にも「ライ病」出てきますよ。

で、松本清張は 原作で「ライ病患者差別を痛烈に批判した」という書評を見た記憶もありますが、私としては そんな立派なものでは無く、「世界の中心で愛をさけぶ」の原作が「白血病」をアイテムに利用したのと変わらず、唾棄すべき描写だったとも記憶してます。

>原作にも「ライ病」出てきますよ

あ、いやこれは私の書き方が悪かったかな?
「ライ病」が出てきたのは覚えています。
ただ、映画が前面にそれを強調しているのに対して原作は殆どそれを感じなかった。
それで印象として「殆ど出てこなかった」と書きました。

ただ、そういう訳で
>松本清張は 原作で「ライ病患者差別を痛烈に批判した」

という書評を私がもし見た場合、
「えー、ホントかよ?そんなにライ病のことに触れてたっけ?」
という感想になるでしょう。

ついでに言うと、私は松本清張は好きですが
彼の評価で必ずついてくる「社会派」とか「推理小説」というのは何故そういう評価がつくのかが分かりません。
あれですかね、松本清張の小説を推理小説といっているのは、
所謂読者に推理させる「推理小説」ではなくて
推理している人を描く小説、という事で「推理小説」なんですかね。
私は彼の小説を「社会派」とかいう点から読んだ事は一度も無く、ただのエンターテイメントとして読んでいます。

★ うごるあ さん

いえいえ 私も、ちょっと文章が変でしたね

どうか、お気を悪くなさらずに…^^;

>松本清張は 原作で「ライ病患者差別を痛烈に批判した」

という書評を私がもし見た場合、
「えー、ホントかよ?そんなにライ病のことに触れてたっけ?」
という感想になるでしょう。

まさに そう私も思ったわけです。^^

>彼の評価で必ずついてくる「社会派」とか「推理小説」というのは何故そういう評価がつくのかが分かりません。

以下は私見です。

他にも説がある事を御注意下さいね^^;

「社会派」と呼ばれた理由には いろいろとあるけれど その大きな理由としては

横溝正史や江戸川乱歩の書いた作品は 主に探偵が事件を推理して解決(解明)に導くのに対して 松本清張などの作品は 警察、検察、弁護士、新聞記者などが捜査(取材)して犯罪を解明する。

つまり、前者は空想小説に近く、後者は現実的だ… そういう批評が松本清張などの登場と同時に大勢を占める様になった事。

それと、松本清張は 実際にあった事件や騒動をモチーフにした小説が得意で、作中には 当時の世相や 社会的背景を多く用いたので、「社会的問題にメスを入れる小説」なんて批評が多かった事。

それらが「社会派」と言われる所以だと私は認識しています。

はじめまして。「犬神」「手毬唄」流れで拝読することとなりました。横溝作品の読者であり、映画のファンでもあります。そして松本作品の読者でもあり、映画「砂の器」も好きです。いろいろなご意見が楽しくて頷きながら、ついついこんな時間まで読み続けてしまいました。(明日も仕事なので早く寝なくては・・・・と思うのですが・・・)
ブタネコ様のご指摘の通り、野村作品は「八墓」にしろ「砂」にしろ、圧倒的に映像で押してくる監督さんだと感じます。ストーリーと役者の演出はさておき、原作では表現できない動く絵と音楽を加味することが映像化の醍醐味であるなら、どちらも野村作品としてはよく出来ていると思います。ただ私も横溝原作ファンですので、市川版と比較するより何より、あの金田一さんは「アカンやろぅ。ソレ」と思いました。視点が誰にあろうとも「金田一」さんが探偵である限り、キャスティングにはもっと気を配っていただきたいです。私も渥美さんは好きな俳優さんなんですがやっぱりちょっと・・・。山本陽子さんはよかったかなと思うんですけど。
ただ、「砂」に関しては、原作・映画共に「ライ」に関する取り扱いは、どちらも過不足ないように私には感じました。直裁に描かない事によって生じる「殺人」の悲劇の根がどこにあったのか?を読者に観客に読み取らせるように出来ているんじゃないかと。(かんぐりすぎでしょうか?)ちょうど「手毬唄」で金田一さんが犯人に直接指摘しない方が、悲しみが増すように。「砂」のあの親子の放浪と別れが心痛いのは、本人には何の罪も無い「病」がまずあり、罪が無くても他人は忌み嫌い差別してきたのは事実であり、そしてそういう事実や偏見は、今も自分の中にあるのかもと胃の下あたりに直接解らせてくれる所だと思うんです。(今はライでなくても、鳥インフルエンザ出した養鶏所は嫌われまくりとか・・・子どもの頃のエンガチョ切りとか・・・名誉の傷であるにも関わらず佐清がマスクをかぶらなければ家族の中で偏見を受けると松子奥様が不憫がったとか・・・)なので、映画のあの場面で泣いてしまうのは、「ごめんなさい、ごめんなさい、」っていう自分の中の良心の呵責のようなものが多分にあるんではないかと。そして犯人にとっては恩人である人を殺めてしまわないと達成できない成功。そんな「宿命」からとうとう逃れることの出来なかった犯人の変貌の哀れさ。(私には「手毬唄」の犯人が3番目の殺人を犯した事と同じくらい哀しかったです。)そこが見ごたえ・読みごたえがありましたし、考えさせられた所でした。原作の犯人は映画に比べてもっと冷淡ですが、その冷淡な人になってしまったところがかえって哀れというか。

長々と突然の書き込み、失礼いたしました。ちょっと感情移入過多なのかもしれません。何だかとりとめなくなって・・・。どうか、ご容赦下さい。

※上の方が書かれていたように私も名曲「宿命」は「ひまわり」と似てるとずっと思ってました。そして蛇足ながら、名曲「犬神」のテーマは「シャレード」かなと・・・

★ じんこ さん

こちらこそ はじめまして コメントありがとうございます^^

>直裁に描かない事によって生じる「殺人」の悲劇の根がどこにあったのか?を読者に観客に読み取らせるように出来ているんじゃないかと。


ええ、そこは理解出来ます。

で、「じんこ」さんは 読み取れたから好意的な評価が出来る

けど、どれだけの人が読み取れたのでしょう?

それと、実際に患者や関係者には どの様に読み取れるのでしょう?

私は そこに問題を感じたので 好意的な評価を出来ずにおります。^^;

ですが、「砂の器」という映像や原作が駄作とは思っていません。

当時の社会背景も考えれば そういう描かれ方が判る気も出来るからです。

問題は、原作や映像が公開された当時と違って 病気の根本が解明された今でも そこが指摘されずに「砂の器は名作」と安易に口伝されていくのは 如何なものかと苦言を呈したかっただけなんです。


ただ、今回のじんこさんの御指摘は 大変興味深く感じました

折を見て再見し 再考してみたいと思った次第ですが、現状を考えると年を越しそうです。^^;

今後も よろしく御願い申し上げます。

突然のコメントにもかかわらず読んでいただいて、ありがとうござました。感激です。長々と書いているわりに、言葉足らずで意味不明な部分が多く、恥ずかしい限りです。がブタネコ様の他のブログを読んだりしていて、ものすごく気持ちを刺激されて、表現の多彩さに「すごい。すごい。」と頷きながら今日も読み続けてしまいました。

ブタネコ様のおっしゃっている意味をよく考えてみて、「ああ、そうか。当然のように父と引き離されるという設定になっているけど、そのような差別される時代であった事に対して制作側からは説明不足なのかな」と思いました。そうするとあの巡査の親切もよく考えるとはたして親切だったのかどうか、が微妙になってきて、かえって今の時代には動機付けが弱くなっていくのかもしれません。(もちろん巡査の気持ちが純粋な優しさであることは全く揺らがないと思っていますが、時代の限界である部分が説明不足かもと。そしてそういうまっとうな優しさが時に人を追い詰める事が現実にもままある事も、この年になると理解できますし。優しさを受け止める側にもそれなりの器が必要なんだということも。)
ただ全く個人的なんですが、私が子どもで何の知識もなかった頃に「ライ」という病に対して目を向けさせ、知りたいと思わせた作品がこの原作・映画であり、「ベンハー」のラスト近くの奇跡の表現であり、遠藤周作の「私が棄てた女」であったので、そういう役目も少しは果たしているのかな?と思ったので書いてしまいました。(なんていうんでしょう?種を蒔かれたような気持ちでしょうか?)
その病が伝染性の極めて低いものであるにも関わらず、長い間この国で、または多くの国で「恐怖」の対象となり、業病とよばれるにいたったのは何故か?近年でさえおこったあの宿泊拒否にみられるような一部の偏見がなくならないのは何故か?私は自分ではこの病が目に見える形で「身体の形が変形する」という症状がある為に、「目をそむけたくなる」心にたいする後ろめたさからくるのかなと考えたりしました。蓋をしたい心はたぶん私も心の内に飼っていて、何故蓋をしたくなるのか?蓋をする事が存在を抹殺する事に繋がるのではないのか?蓋をしてはいけない事が歴然とあるのではないのか?などと自問し続けていかないと、私なんかはすぐ「世間の常識」に流されそうで、そこが怖いのです。
「砂」に対しても、自分があの作品の世界の住人であった場合、巡査のようにできるのか?今リメイクで話題の「犬神」にしても、もし佐清さんが本当にあのマスクの人のようであった時、「佐清さんは佐清さんです」と自分が珠世なら言えるのか?千恵子が歌名雄に「兄さん」とよびかけたような心が自分にはあるのか?(すみません。もともと横溝検索でこちらのブログにたどりついたので話題を引きずってしまいます)自分が病気であると知っていながら、大ファンの役者に会いに出かけていったりしないか?話の中で「人が殺される」事の必然によって成り立つ事の多い「推理小説」というジャンルは、私のような人間に「自分はどうなんだ?」と常に問いかけ続けてきます。なので何度も読み返す事が多いジャンルであります。
(もちろんブタネコ様が何処かで書かれているように「ゴミだな」っていう作品も多々あります・・・)

2日続けてまた長々となってしまってすみません。その他のブログも楽しみに読みつづけていきます。
※先の投稿で書きました「手毬唄」の殺人は「最後」の殺人の事を言いたかったのです。失礼いたしました・・・※

★ じんこ さん

>当然のように父と引き離されるという設定になっているけど、そのような差別される時代であった事に対して制作側からは説明不足なのかな

伝染病だと考えられていた時代ですから この当時としては引き離されるのがあたりまえ…というのが制作者だけでなく 見る側も説明する必要すら無かったわけです。

でも、今は それが誤解だったのだから 説明する必要があるわけです。

特に その誤解が故に多くの患者が苦渋を舐めたわけですからね。

私が申し上げたかった事は 病気をストーリーのアイテムに使用すると 将来的にこういう結果を招く事もある…という事。

病気とは無縁の人は「あの時代は仕方が無かったんだよねぇ」なんて一言で終わってしまうけど、当事者達には そうはいかないでしょ?

その辺をお察し頂けましたようで嬉しいです。^^


で、松本清張の作品の中には たしかに面白い作がいくつかあると私も思います。

でも、私としては尊敬する横溝正史と比較の対象となるほど 評価すべき対象とは思っておりません。

なので、じんこさんのコメントの中にある 横溝論はあくまでも横溝論として単体で受け止めさせて頂きたいと思うわけで 松本清張ごときの作との比較に関しては応じたくありません。^^

そこは どうか御了解願わしゅう存じます。(けっして怒って申し上げているのではありませんよ^^;)

で、話を戻しますと…

>そうするとあの巡査の親切もよく考えるとはたして親切だったのかどうか、が微妙になってきて、かえって今の時代には動機付けが弱くなっていくのかもしれません。(もちろん巡査の気持ちが純粋な優しさであることは全く揺らがないと思っていますが、時代の限界である部分が説明不足かもと。そしてそういうまっとうな優しさが時に人を追い詰める事が現実にもままある事も、この年になると理解できますし。優しさを受け止める側にもそれなりの器が必要なんだということも。)


巡査の行為における「親子を引き離す」というより、「父親を隔離する」事は 当時としては親切と言うより義務だったのでは?と私は思います。

が、引き離した後に その子を引き取ろうとしたのは純粋な情にかられて…というもので であるが故に後の結果がもの悲しいですね。

【※注意!!】

この記事は『ブタネコのトラウマ』の倉庫に保管されている記事なのでコメントの投稿は出来ません。 2015年2月10日以降 このクソブログは『ブタネコのトラウマ・リニューアル版』に移転しましたので新規記事更新及び、過去記事へのコメントの受付もそちらで行っておりますので お手数ですが、そちらへの移動をお願い申し上げます。