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2006年05月10日

● 機械屋のG(その3)


昔… そう、今から20年程前「ベンチャー・ビジネス」というブームがあった。




サラリーマンが脱サラして独立し、今風に言えば「起業」する。


このブームの火付けは マイクロソフトのビル・ゲイツやアップル・コンピュータの創始者、スティーブジョブズ等 若くしてアメリカン・ドリームズを成し遂げた人物達 彼らが開発したオペレーティングシステムのおかげで マイコンと呼ばれていた制御基盤が アッと言う間に発展し、現在のPCへと変貌 同時にファミコンと呼ばれたTVゲームが大ヒットして 1軒の家庭に1台の様な普及を遂げる。


そういう時流に乗って 当時の「ベンチャー企業」の殆どはソフトウエア関連の会社が大半だった。


それまでの工学系の専門学校では「電子工学」「機械工学」「通信工学」というのが花形だったのだが、そこに「情報工学」と呼ばれる コンピューターのハード・ソフト両面をの知識を持った人間の養成も盛んになり、プログラマーやシステムエンジニアという職業が いろんな分野から引く手数多の時代でもあった。




さて…


そんな当時、雨後のタケノコの如く 次々と「ソフトハウス」と呼ばれる会社が起業したわけだが… 20年経った今、その当時のベンチャー系ソフトハウスで 今も健在な会社がいくつあるだろう?… 正確な数は判らないが、数え切れないぐらいに起業したにも関わらず、今でも健在なのは限られた ごく一部だけである…と言いきって間違い無い。


では、何故 生き残れなかったのか?


大きな理由がいくつか有り、それはベンチャービジネスがもてはやされていた時代に 既に指摘されていた事でもある。


例えば、ソフトハウスとして自立するためには 目玉となる商品が必要だった。


その商品とは「ゲームソフト」に限らず、「給与計算」でも「会計ソフト」でも 何でも良い。


要するに、20年後の今現在、「そんなのパソコンでやるのが常識よ」と言われている事の全てと言っていいモノが 僅か20年前には「何も無い」みたいな時代だったのだ。


で、その先駆け時代「ゲームソフト」「一般事務処理系」「特殊計算系」という 大きく分けて3つの分野において 山の様にニーズがあり、それぞれの分野のエキスパートが求められたのである。


で、この場合、「ゲームソフト」には グラフィック処理系のテクニックが必要され、「特殊計算」とは 今話題の「構造計算」の様に機械工学や建築工学、土木工学などの専門知識が必要とされ、「一般事務系」には会計士や社会保険労務士的な知識が求められたから 次第に、それぞれが専門分野化してジャンル的に分かれていき、それぞれのソフトハウスにおいて特色となる。


で、ソフトハウスとして 自立する為の商品が明確になった時、ソフトハウスには 最低限5つのタイプの人間が必要となる。


  A ソフトを開発するプログラマ

  B ソフトを設計するシステムエンジニア

  C 出来上がったソフトのマニュアルを作る人

  D 会社の一般事務・経理が出来る人

  E 会社の経営者


このA~Eが それぞれ一人ずつ 最低5人で分担できているのが理想的ではあるけれど、当時のソフトハウスの殆どが A~Eを2~3人で兼任してこなそうとし、最終的には破綻したのである。


当たり前の事だけど この当時、大抵のソフトハウスを起業しようとする人物は プログラマーとしての自分の技術に自信を持ち


「俺は他のプログラマー達より優秀なんだ」


という自負の強い人物が圧倒的に多かった。


確かに、それだけのプライドを裏付ける技術力の高さは認めるべきだと思う。


独立してゲームソフトを開発し、そのソフトがヒットして立身出世街道を… ドラゴンクエストの堀井雄二や ゼビウスの遠藤氏を夢見たわけだ。


しかし、こう言うと失礼ではあるけれど 腕の良いプログラマーって 不思議と対人折衝が下手くそな人が多く、顧客との会話でしばしば相手を怒らせる…なんて事は珍しくなく、顧客の要望をシステムに反映させる…という部分で SE的役割を行うにはプログラム知識と対人折衝のテクニック その両方の能力を 最低限、兼ね備えていないと どんなに優秀なソフトをプログラミング出来ても 営業が成り立たず…なのだった。


で、今回は「ゲームソフト」「一般事務処理系」「特殊計算系」という 当時の大分類のうち「ゲームソフト」系のベンチャーについて語る事にしようと思っているので ソフトハウスの内部的問題点について触れるのは以上にとどめておく事にする。^^;




さて、札幌と言う街は その当時、不思議とコンピューター系の業務が 東京を除いた日本全国の中で京都と並んで 際立って会社や技術者が多かったのだが、ゲームソフトに関しても それなりの会社や開発者が多かったのだ。


で、あるゲームソフト会社で ファミコンのヒット作の開発を数本手がけた主任プログラマーが独立して、本人が、かねてより作りたいと望んでいたゲームソフトを開発しようと夢を見た。


アイデアも有り、経験も有り、テクニックも有る… でも、ゲームソフトを作るためには 最低でも あと二つのモノが必要だった。


その二つとは「金」と「知恵」である。


当時のファミコンソフト開発には ICEと呼ばれる専門の機械が必要だったのだが、その機械が安いモノでも数百万という値段だった。


そして、当時のファミコンは メーカーである任天堂が絶対的に独善的な存在として君臨し、安定してヒット作を開発するソフト会社には 物凄く低姿勢でありながら、新規の開発業者に対しては 非情とも言える過酷な条件を提示していたのである。


例えば A社が 新作ゲームソフトを開発し、任天堂に持ち込んで


「ファミコンソフトとして販売させてください」


と、申し出たとする。


すると、任天堂の当時の担当者は


「では、初期ロットとして15000本を制作しますから

 それをA社で全て買い取ってください」


と言ったのだ。


記憶がおぼろげなので 正確な数字では無いが…


仮に定価で 1本2000円の場合、原価は40%の800円 それを50%1000円で買い取れ(上乗せの10%は任天堂の利益)… 任天堂の条件は そんな内容だった。


つまり、


「売れるかどうか判らない商品の責任までは取れないから、

 まずは制作費を自腹で捻出しなさい」


という事。


なので、1本のソフトを販売するためには1500万の持参金が必要だった。


で、ソフトハウスが自力で初回ロットを製造し、任天堂の流通ルートで販売するわけだが その場合、小売店卸値が定価の80%で 任天堂が15%を差し引き、残りの65%分が 1本売れるたびにソフトハウスに支払われ、売れ残った場合は 全てがソフトハウスの買い取りとして商品を返品された。


実際には 原価が50%であるから 純利益は差額の15% それが製造者であるソフトハウスの取り分となったのだ。


つまり、1万5千本の初回ロットが全部完売すれば450万の儲け…だが、売れ残りが出れば その分は全て自腹回収となる。


任天堂は 持ち込まれて制作した段階で利益を取り、売れれば売れたで利益を取り、売れ残った場合は 製造原価を制作会社に負担させ 自社では損失を1円も被らない… そういうシステムだったのだ。




さて… 独立してゲームソフトを開発し、ひとヤマ当てる… そんなベンチャー達に目をつけたのが 喫茶「職安」の常連の一人だった「機械屋のG」と呼ばれた人


Gさんは 元々、ゲーム機業界に通じた人だったから 大手のゲーム会社とのコネクションもあり、ゲーム喫茶の隆盛で財を成していた事もあり、そんな彼のもとをベンチャー系のゲームソフトハウスの代表者達が訪ね 相談を持ち込んだものだった。


と言うのは ベンチャーの代表が直接・間接に資産を持っている人物であれば 先に述べた任天堂への持参金を自力で用意できるのだが、多くの場合 そんな資産を持っていない。


「だったら、銀行に行けば貸してくれるんじゃない?」


もし、貴方が そう思ったのなら「世間知らず!!」と鼻で笑ってあげる。^^;


銀行はね「カタチあるもの」にしか金を貸さず、貸す場合には融資金額に見合った担保を要求する。


つまりは「担保となる不動産を持ってるか?」なのである。


しかも、この当時は それ以外にも実にふざけた審査基準を持っており、その一例を挙げると


・開業以来3年以上が経過してるか?

・その間、従業員に対して 滞り無く給与を支払っているか?

・税金は ちゃんと納めているか?

・会社経理の貸借対照表及び損益計算書は黒字になっているか?

・会社代表者は結婚しているか?


こんな基準が融資担当者のマニュアルにチェック項目として記載されていたのだ。


で、考えてもみて頂きたいが、ベンチャー企業なんてのは出来たばかりなのである。


上記の基準なんて どれもクリア出来るはずが無い。^^;


「なんとかならないでしょうか?」


粘る相談者に 今は亡き北海道拓殖銀行札幌東支店の当時の融資担当責任者だった人物の伝説と化した迷台詞を 良い機会なので御紹介しておくと


「融資希望金額(その時は1500万)と 同額の定期預金でもあれば

 それを担保に融資できるんですけどねぇ…」


「同額の定期預金があれば 借りるバカいねぇよ!!!」


機械屋のGさんは そのソフトが面白いと判断すれば 1本売れる毎に何%と決めたロイヤリティーを貰う事を条件に 持参金を肩代わりしたのである。


で、その噂を G氏が自分でバラ撒いたから 次々と夢見るゲーム開発者が現れ、Gさんに協力を求めたのだ。


あえて、ゲーム名は公表しないが そのおかげでヒットし、当時のゲーマーなら


「あぁ、アレね」


と 名前を覚えている様なソフトが数本ある。


しかし、ヒットした作品を作ったソフトハウスは 次のヒット作を生み出す事が出来ぬうちに ひとつ、またひとつと消滅していき ソフトの権利や ソフトハウスじたいがG氏のモノとなっていったのである。


それは、ファミコンからスーファミ、セガサターン、ニンテンドー64 そしてプレイステーションへとゲーム機が様変わりするのに伴い、ハードウエアも進歩していく中、その進歩に多くのプログラマー達がついていけなかったからでもあるし、根本的に会社の経営という事を プログラマー上がりの経営者には実践できず、会社が維持出来なかった…という理由も大きい。


たとえば、私も 当時、システムエンジニアの端くれであり プログラマーとして働いた時期もあるが、アセンブラ、ベーシック、C言語… OSは CPM86、MS-DOSまでは充分に働いたし、知識にも自信はある。


けど、WINDOWSになり、Visual Basicになり…という流れには 恥ずかしながらついていけなかった、と言うか、ついていく気にすらなれなかった。^^;


また、会社を経営する…という事は それだけに独自の知識やパワーが必要となり、プログラマーやSEと兼任で…って感じでは なかなか出来る事では無い。


しかも、人を雇えば それに応じて責任や雑務も増えるのだ。


雇い入れたプログラマーが優秀であれば それなりの待遇を要求するし、それを納得させられなければ そのプログラマーが独立してしまったり、他へ移ってしまう…なんて事も日常茶飯事になってしまったしね。




だから、Gさんの協力を得て ゲームソフトを制作・販売したソフト会社の代表者は その後もGさんを経営コンサルタント的に指導を仰ぎ、いくつかの会社には非常勤顧問として納まった会社もある。


そんなGさんが あるパチンコ店の計画倒産に巻き込まれ トドメを刺されたかの如く失踪を遂げた…と言う話を


  ●『機械屋のG(その2)


という記事で述べたのだが、その計画倒産の手形をG氏に持ち込んだのが銀行屋のTである。


まぁ、その辺の話の続きは長くなるので また、今度^^;



お駄賃

 気が向いたら…で結構です。^^;

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コメント

ブタネコさんの喫茶「職安」シリーズ(?)は青木雄二氏のマンガを読むような楽しさがあります。
伺い知れなかった他の世界を知る面白さとでも言いますか。。
(ブタネコさんご本人には面白い話ではないのかも知れませんが(笑))
今後も楽しみにしております。

遅ればせながら60万おめでとうございます(^_^)/。
100万なんてすぐ!という感じがしています。


★ ラヴァ さん

>本人には面白い話ではないのかも知れませんが

20年以上が過ぎたんで 暴露してもいいかな…^^;と。

ま、実名までは出せませんけどね^^;

今後もお楽しみ頂けますと幸いです。

【※注意!!】

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