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2006年05月04日

● 屁理屈


最近、殆ど聞かなくなったが、かつて、「五月病」という言葉があった。




最近では 死語扱いなのかもしれないので 「ごがつ病」と読む…と言っておく。


この言葉の語源は 色々と諸説あるらしいが 私風の解釈で申し上げると、4月の初旬に「新入学」とか「新入社」として 入学・入社した学校や会社の新しい環境に慣れずに 

「こんな筈じゃ無かった…」

という思いが日増しに強くなっていき、ほぼ1ヶ月後の このゴールデンウィークという連休の間に 色々と考えた末、退学・退社へと思考が行ってしまう人が多い事から 言われ始めたと解釈している。


例えば、高校時代に


・「xx大学に合格して 夢のキャンパスライフを…」なんて夢を見て、
 実際に進学してみたら 周りのレベルが高すぎてついていけなくなった…


・工学系の大学を卒業し、
 技術系の部署に配属されるものと就職してみたら営業部に配属されて…


「こんな筈じゃ…」という意味もあれば…


・田舎から都会の学校や会社に入り、ホームシックに罹った…


・それまでは 勉強もスポーツも周囲の同級生達より秀でていたのに
 新しい環境になった途端、自分よりも上の人間が一杯いる事に気付き挫折した…


・仕事も生活環境も不満は無いが、
 上司や先輩に どうしても馴染めない人がいて、
 その人に従わなきゃならない事だけが どうにも我慢がならない…


・初めての給料を貰い その給料の中味の数字で現実を知り、
 将来への夢が萎んでしまった…というケースもある。


入ったばかりの時は「まだ入り立てだから…」と自分で自分を納得させ励ます事も出来るが、日が過ぎ、ほぼ1ヶ月が過ぎ、ゴールデンウィークとして まとまった連休で帰省するなど 僅かながらも環境が変わって考える時間やタイミングを得ると ふと、マイナス思考とも言うべき考えが頭の中を溢れ


「辞めようかな…」


となる。


そんなのを指して「五月病」と 私が大学生や社会人に成り立ての頃は、一般的に言われており、実際に 連休明けに退学・退職する新入生や新入社員は少なくなかったものだ。


と言うのも、私も 正直言えば、就職して数ヶ月ぐらいまで


「やっぱ、辞めて札幌に帰ろうかな…」


そう思った事が何度もあったからだ。^^;




さて、何故こんな話を始めたかというと ちょうど、今がゴールデンウィーク真っ盛りという事もあるのだが、他にも ちょっとキッカケがあっての事とお許し願いたい。^^


私の世代の連中が大学を卒業して、いずこかの会社などに入り 社会人となった頃、世の親や先輩諸氏は「石の上にも3年」という言葉を好んで用い、


「どんなに辛い事や嫌な事があっても3年は辛抱するんだぞ」


そう言ったものだ。


しかも、「就職=定年までの永続勤務」が当たり前で 中途で退職する…という事は余程の理由が無い限り、「トンでも無いバチ当たり」な奴と蔑まれる様な風潮さえあった。


例えば、上司や先輩が実に下劣な輩で どうにも嫌で「人間関係」を理由に退職する…という事例は多かったが、「どんな職場にだって 嫌な奴はいるもんだ」 そう言われて、全てが否定されたりしたものなのだ。


また、ちょっと別な事を言えば…


私が子供の頃、世の親達は

「勉強して、良い学校に入って、良い会社に就職するのよ」

と言うケースが一般的と言って良いぐらい多かった。


この場合の「良い学校」とは「偏差値が高く進学率の高い」と言う意味であり、「良い会社」とは「官公庁や一部上場などの大手企業」を指すわけだ。


北海道的ローカルな例で言えば


「北大に行って、上級公務員や 北海道拓殖銀行みたいな”立派な”会社に入るのよ」


みたいな事だった。


で、現実的な事を言うと


”立派な会社”と呼ばれた”北海道拓殖銀行”(以下、”拓銀”と呼ぶ)は 皆さん御存じの様に破綻した。^^;


実のところ 私の友人で拓銀に入社した者は 先輩や後輩も含めると実に多数いたものだが、その大半が”拓銀”破綻と同時に 道内店舗の受け皿会社となった北洋銀行や道外店舗の受け皿となった中央信託銀行に移ったが、かなりの人数が その時に転職・退職を余儀なくされたものでもある。


まぁ、これはあくまでも一例で バブル期にはヘッド・ハンティングと呼ばれる人材の引き抜きや ベンチャー・ビジネスという新語などで表される若者による 独立開業が活発となったり、「求人難」という 就職希望者の売り手市場だった時代などもあって、退職・転職するのは蔑まされるのでは無く、そうする事でステータスを上げた人が増えたのも事実である。


つまり、昔ながらの「良い会社」と呼ばれる基準が バブルの経済と共に崩壊した言って良い。


しかも、バブル期以降 「リストラ」が一番手軽な経費削減として大手企業で濫発された事もあって 失業者が増え、今では 転職や退職を誰も馬鹿には出来なくなってしまった風潮もある。


価値観の違い…と言ってしまえば実にお手軽なのだが、「良い会社」と一口で判断する基準とは どんな事を指すのか? おそらく、道行く人に聞いて回っても その答えは千差万別なものとなる。


と言う事は「良い会社」を きちんと表現できなければ


「勉強して、良い学校に入って、良い会社に就職するのよ」


という言葉は 実に、無意味で無責任な言葉なのか?と 問われる事になり、無意識的に全てが否定されていくと「勉強する意味は?」というところにまで至ってしまう事となる。


「お母さん 何故、私は勉強しなくちゃいけないの?」と聞かれた時 今の親達は なんと応えるのだろう?




さて、ちょっと話を変える。


最近の少年犯罪の深刻化を表す時、「キレやすい現代の子供」という様な表現が多く用いられる。


この「キレる」という表現…


これも、私の学生の頃は 全く違う意味で用いられていた言葉で「あいつは頭がキレる」 そういう表現があったものだ。


この場合の「キレる」と言うのは 簡単に言えば「回転が速い」「思考速度が速い」「応用力が凄い」という意味で けっして「怒りやすい」とか「錯乱してしまう」という意味とは全く程遠い。^^;


で、昔 よく話題になったのは「頭が良い」というのと「頭がキレる」の違いは何?と言う事。


「頭が良い」と言うのは知識が豊富なんだけど それはあくまでも試験勉強に対して発揮される知識であって 極端に言えば「暗記力」


それに対して、何か問題にぶつかった時に それを他者より早く、的確に対処できる者を「キレる奴」なんて言ったもの。


同じ事をするのでも、他者よりも簡単に 他者よりもお金をかけず、時間や手間暇をかけずに成し遂げる方法に気づくのが早い奴…とでも言えば判って貰えるだろうか?


ただ、この「キレる奴」と言うのは 悪い方向に発達してしまうと「ズル賢い奴」という意味でも使われたものだ。


例えば、先生など大人に怒られそうな事態になった時、巧く怒られずに済むように回避したり、自分の責任を転嫁したり、咄嗟の言い訳が巧かったり… そういう部分に発達する者が多く それは、どんどんマイナス方向へと作用してしまう。


でね、私を含め 喫茶「職安」のバイト学生達は 常連客からいつも「頭が良い」ってのは「暗記力がある」ってだけの単純な奴と馬鹿にされてると思え、オマエ達は「頭のキレる奴になれ」 よく、そう言われたものだ。


これは、「悪い人になれ」という意味では無い。^^;


「人生を楽しむ」 そういう意味で「人生の達人」になるためには 知恵を使い、頭の回転を速め、キレを良くしなさい… そういう意味である。


正直言って、私は学校で習った事 特に試験勉強のために覚えた知識なんて 社会人になって以降、無意識には役に立ってるのかもしれないが、認識的には 殆ど、意味があったと感じていない。


数学の関数はSE時代に少しだけ役に立ったが、ねじ曲がった歴史観や思想の社会科や 文章の表面的な部分しか読まない国語や 外国人との会話出来ない教師から習った英語などは 毒にこそなっても薬にはならなかった。


けど、会社を持ち 心臓が壊れても、とりあえず生活できる貯えがあるのは 喫茶「職安」の常連さん達の薫陶と支援と 自信過剰的に言えば、仕事や生活に直接結びつく知識を一生懸命に楽しみながら覚えたからだと思っている。


40代後半の歳に至った現時点で 喫茶「職安」の常連達が私達バイト学生に言っていたのは 試験「だけが」出来る者では無く、試験「も」出来る者、欲を言えば 試験に出ようが出まいが、試された時に それなりの結果を出せる人になれ… そういう意味なんだと感じている。




最近、「ゆとり教育の弊害が…」と 学校教育への問題点を指摘するメディアや識者が多い。


「ゆとり教育」を表す時 ひとつの代表例として「円周率は3だと教える」という話がある。


まぁ、教師達からは こじつけだと批判される事を覚悟で言えば、円周率が3であろうと3.14であろうと そんなものは円周率に関わる職業につかない限り、実は どうでも良い事なのではあるが…


円の面積、円周の長さ それを計算する時に 出来るだけ正確を期そうとすれば、円周率は 出来るだけ小数点以下の桁数が多い数字で計算してこそ正確性が上がるのは自明の理。


ところが、円周率は3.1415926535…と果てしなく続いていく数字だから 便宜的に我々の時代では、そして国際的な標準としてπ=3.14を用いてきたわけだ。


で、その3.14を3とする意味とは何か?


実はね、この根本的理由を きちんと応えてくれる人が物凄く少ないのである。


しかも、一般的には「3で計算すれば簡単じゃん」という解釈が圧倒的になり、それが故に「ゆとり=簡単=楽(らく)」という解釈に直結してしまう。


あのね、本来の「ゆとり教育」ってのが目指した意味は違うのだ。


「指導要綱」という名の文部省勅命に従い 教育がマニュアル化され、何でもかんでも詰め込むように暗記ばかりを求める教育の結果、応用力が著しく欠けた人間に育つアホが増えたから 詰め込み度合いを緩めて そこに「ゆとり」を持たせて、ただ暗記させるのでは無く、「何故、そうなるのか?」という理論を考えさせる為…ってのが まず第一


それと、覚える能力には 子供それぞれに個体差があり、簡単にすんなりと覚える子もいれば、なかなか簡単には覚えられない子もいる。

そういう子供達に 当時の教育では「詰め込み度」強すぎて なかなか覚えられない子の割合が増えてきたので 簡単に覚えてしまう子に なかなか覚えられない子が覚えるまでの「時間的猶予」を与えてバランスを取るために 詰め込み度合いを緩め「時間的猶予」を与えた…という意味でもある。


で、「詰め込み度合いを緩める」という実質的変更が 義務教育時点で必要性が薄いとされた部分を省いたり、基礎的な部分の度合い、理論を覚える事を優先させる…という意味合いで 円周率は3になったそうなのだが、その辺から 目的と現実の間にギャップが生じる。


だって、円周率の持つ意味って「理論」そのものなんだもん。


だから、昔は「先生、この方程式の解き方が判りません」という質問が圧倒的だったのに対して「この問題を解くには どの方程式を使えばいいのか判りません」という質問に変わり、最近では「この問題 どうすればいいのか判りません」と根本的に崩壊した様な質問が多いのだという。


元々、試験も含めて問題とは 理論の理解度(どれだけ判っているのか)を問題でを試すために存在する。


なので、理論を判っていれば解けるし、判っていなければ解けないのは当たり前、「問題の解き方が判らない」という事は 根本的に理論が判っていない証拠なのだが…


いつの間にか 学校の教育、教師の存在意義、そして生徒の目的が「理論を理解する」ではなく「問題を解くテクニックを身につける」になってしまっている。


試験と理論の関係が逆になってしまって、試験問題を解くために理論がある様な図式になっており、試験(問題)さえ解ければ その問題で本来試される理論の理解度など どうでもいい事になってしまっている。


要するに、解き方を 教師や教科書や塾で暗記するだけで、自ら理論で覚えようとはしておらず、「自分で考える」という事を放棄しちゃってるんだなぁ…


大事なのは「問題を解くテクニックを身につける」のでは無く、「問題を解く為の理論を身につけ 方法を自分で編み出す」事にある。


例えば、ロールプレイングゲ-ム(略してRPG)というゲームソフト 代表的なものと言えば「ドラゴンクエスト」とか「ファイナル・ファンタジー」を遊ぶ子供は多い。


これらのソフトの場合、ゲームの世界を旅して いろんな人と会話をしてヒントを貰い、宝物やキー・アイテムを見つけて イベントと呼ばれる当面の問題を解決しながら 次の場所、次のイベントへと進んでいく。


こういったソフトの場合、ヒントを元に そのアイテムを手に入れるために悩んで悩み抜くのが本来の醍醐味なのに、最近は ゲームソフトが販売されるのと同時に、「攻略本」が発売され その「攻略本が」ソフトの販売本数の半分とか70%ぐらいの冊数 売れるのである。


つまり、ゲームを遊ぼうと思ってるプレイヤーの半数以上が攻略本を手に 多くの場合、自分で考えて悩んで攻略するのでは無く、攻略本に従ってゲームを進めていくのである。


昔、黎明期にファミコンソフトの開発に携わった者の一人として つくづく思うのだが、そんな遊び方で「何が楽しいの?」と。


それじゃあ「遊んでる」んじゃなくて ゲーム会社や攻略本の制作会社に「遊ばれてる」んだよ… とも。^^;


もうちょっと 自分で自分の脳味噌を使って「考える」楽しみ方をすれば良いのに… と言うか、そんなんだからマニュアルが無いと何も出来ないアホが増えるのだ。^^


でね、強引に この場合の「試験」や「ゲーム」と「人生」を置き換えてみると…


問題に対して マニュアルを求めたり、解決方法を他に求めるばかりで 自分で解決しようとしない、自分で考えようとしない… なんとなく、相関関係を感じてしまうんだな。




さて、話を思いっきり元に戻す。


大げさな言い方を用いれば「人生」にマニュアルなんて物は無い。


何が起きるか判らないし、それをどう解決し、どう乗り越えるかは当事者の判断なのである。


私の世代が学生の頃に言われた


「勉強して、良い学校に入って、良い会社に就職するのよ」


という言葉は 根拠や意味はともかく、「人生を失敗しない為」の ひとつのマニュアルだったとも言えるのだが、そんな言葉には さほど意味が無かった事が既に証明され、転職する事も若くして起業する事も さほど珍しくも無く、若者の選択肢の一つとして 我々の頃の自由度と比べて格段に幅が広がったとも言える。


ところが、不登校児童の数もニートと呼ばれる若者の数も 信じられないぐらい増加してるのは何故なんだろう。?


それが、もし間違った意味での「ゆとり」教育の弊害が産んでしまった事なのだとしたら、とっとと是正しなければいけない筈なのに 事の真相を把握するための理論や 応用力のある柔軟性に富んだ頭を持つ役人や識者も欠けてもいるんだろうなぁ…


「辛い事があって 外に出たり、学校に行ったり、働きに行くのが嫌だ」


昔は ちょっと小賢しい言い訳をすると 親や大人達から


「屁理屈ばかり こねてるんじゃ無い!!」


と、怒られたものだが、そんな台詞も 今では「死語」らしい。^^


いつの間にか「屁理屈」と片付けられていた言い訳が「正当な理由」と認められたのだろうか?


どうやら、その辺も考えてみる必要があるようだ。^^


尚、最期に少しだけ補足しておくが、私は 昔を懐かしみ、「昔は良かった」と懐古的叙情に結論づける気は毛頭無い。


いろんな事が出来る面白そうな世の中なのに勿体無いなぁ…と言う事を強調したいだけなのだ。^^



お駄賃

 気が向いたら…で結構です。^^;

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コメント

ブタネコさんへ

確かに、最近のニート族等を見ていると、日本も豊かになったのだなーと実感します。遊んでいても食べていけるのですから、こう考えていくとやっぱり親の責任に行き着くのかな?彼らが一人で生きて行く力をつけてやれなかったのですから、彼らは自分の親が死んでしまったらどうするのでしょうかね?最近僕も年とってきたのか、どうも右翼的な考えに近くなってきました。昔僕の親父は子供の犯罪があった場合、軍隊を作って、こいつら全員ぶち込んで根本から叩き直さにゃーいけん、と吼えていました。最近大いに同意する自分に気がついて驚いています。僕が学生時代の時は親父と意見を戦わせて、かなり過激なリベラルな意見を言って悲しい思いをさせたものです、親父の癇癪が破裂する直前に二階に逃げる技も見につけましたし、今思えば親父相手にディベートの訓練をしていたことになりますね。良い学校、良い就職等よりも一人で生きていく力を身に着けさせることが教育の第一目的だと思うのですが、それは各人全て違うわけで画一的な教育する学校では無理なのかもしれません。やっぱり親が責任を持って教育すべきですね、子供がいない僕が言っても無理がありますか?。さてお話し中に出ていた拓銀の件ですが、昔拓銀の子会社の人と一緒に仕事する機会が有りましたが、皆さん真面目でよい人でしたからその後の動向が気になっています。

なるほど、考えさせられますね。
不登校やニートが増えたのは、「それでも生きていける」社会だから?
社会全体が貧しかったら、そんな人たちを抱えていく余裕はないはずですから。
良くも悪くも、豊かな社会ということでしょうか。
頭が悪くても、キレが悪くても、何も考えずに生きていけますから。^^;
日本の将来は・・・考えたくないですね。

★ タンク さん

>昔拓銀の子会社の人と一緒に仕事する機会が有りましたが

へぇ、じゃ どこかでお会いしてるやもしれませんね^^


★ あかり さん

>良くも悪くも、豊かな社会ということでしょうか。

どうなんでしょうね^^;


【※注意!!】

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