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2006年03月20日

● 獄門島(古谷版)


古谷一行が金田一耕助を演じた77年版「獄門島」を語ってみる。




獄門島

獄門島


結局、この作品を見る事が出来たおかげで このところ続けてきた古谷一行版金田一耕助シリーズの第一期にあたる77年版のTVシリーズを全部再見した事になる。^^;


まぁ、一念発起すれば… なんとかなるもんなんだなと 只々、苦笑するばかり。


さて、横溝作品屈指の傑作と評価する「獄門島」をTV版では どう描いたか…


主な出演者は 中村翫右衛門、滝沢修、金子信雄、浜木綿子、河原崎国太郎、、仲谷昇、、角野卓造、河原崎長一郎、などで…


獄門島

獄門島

獄門島


獄門島

「分鬼頭の嫁」


獄門島

獄門島

獄門島

以上、イタイ三姉妹^^;


獄門島

分鬼頭に住み着く元兵隊が 三善英史


そして本鬼頭の早苗が

獄門島

島村佳江 で、


この作品だけは 他の「日和警部」こと長門勇は登場せず、

獄門島

「磯川警部」として有島一郎が出演している。




さて、この作品に関しては あえて「あらすじ」は申し上げるのを止め 個人的感想のみ申し上げようと思う。


まず、77年版の第1期の古谷一行:金田一耕助のTVシリーズは どの作品も概ね良い出来に仕上がっていると思う。


特に、このTV版「獄門島」に関しては ビデオのパッケージに書かれた論評を読んだところ 77年版最高の出来と評論家達から絶賛され、その為 この後、映画版「悪魔が来たりて笛を吹く(西田:金田一)」の監督に 


獄門島

このTV版「獄門島」の監督である斉藤光正が抜擢された…とある。


その評を見て「成る程なぁ…」と私は違う意味で思った。^^;


映画版「悪魔が来たりて笛を吹く」については『悪魔が来たりて笛を吹く(西田版)』を御参照頂く事にして…


率直に個人的感想を申し上げれば この「獄門島」は非常にイタダケナイ。^^;


どこのアホ評論家達が絶賛したかは知らないが、ハッキリ言える事はその評論家達は横溝作品が判って無い。という事。


このTV版「獄門島」も 映画版「悪魔が来たりて笛を吹く」ほど酷くは無いが、第1話で かなりなネタバレ表現となっており、斉藤光正というアホ監督には探偵モノを作る資質が完全に欠けていると言わざるを得ない。


その上で そんなアホを絶賛し、映画版の監督に抜擢した…という流れを知って 映画の制作サイドって 揃いも揃って間抜けばかりだったんだなぁ…と思うと同時に そんなんだから斜陽産業に成り果てるんだと実感した。


結果的に このTV版「獄門島」は 原作の雰囲気は醸しつつも探偵モノとは程遠いストーリーになってしまい、役者の格の違いからか 分鬼頭の御寮人(浜木綿子)のヒステリックさばかりが目立って鼻につく。


非常に残念な結果となってしまったわけだ。^^;


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コメント

そうでしたか、TV版はいけませんでしたか。
画像を拝見した限りではそれほど悪くもなさそうという印象を受けたのですが・・・
古谷版の『獄門島』、まったく記憶になかったので、『獄門島』だし古谷版だし、どんなんやったんかなーと思っていました。

ネタバレ的な作りにされると悲しくなりますね。
ミステリとわかっていて、なんでそんな失礼なことをするんでしょうね。

ミステリ小説の映像化というのは、細心の注意を払うべきです。
たとえば、キャストを見れば、この人が犯人なんだろな、ということが判ったとしても、作品を最後まで楽しませる技量というものを、監督は有していなければなりません。

『獄門島』からは離れますが、ちょっと おしゃべりさせて下さい(^^ゞ

横溝正史は『真説 金田一耕助』の「Whodunit の映画化」というエッセイの中で、『オリエント急行殺人事件』が映画化されたおり、犯人については語ってくれるな という配慮がなされた、ということを引き合いに出して こんなことを書いていました。

【 このあいだ なにかの新聞を見ていると、
 「『悪魔の手毬唄』の殺人鬼に取り組むK.K」という見出しが大きく出ていた。
 この記事のみならずK.Kさん、あちこちで“私が犯人をやる”と、フーダニットのファンが読んだら、絞め殺されそうなことを平気で語っていらっしゃる。ちかごろでは犯人がわかっていても、観客を動員できるという自信が、映画会社にあるのだろうか。】


横溝正史という人は、自分の作品が映像化されたとき、興行成績や視聴率というものを、制作サイドのためにとても気にしておられました。

『真説 金田一耕助』には、角川映画が当たるか当たらないか、そのことを気に病んでいる文章が多々見受けられます。

原作者である自分のためにではありません。
どこまでも制作した側のために、ヒットしてほしいと願っていたのです。
かように心の広い、気持ちの優しい氏でありました。

『悪魔の手毬唄』についても、決してK.Kさんを非難していたのではなく、こうした宣伝方法もありなんだなと、純粋な驚きを感じておられたのでした。

だからこそ、この「Whodunit の映画化」というタイトルを掲げたエッセイをお書きになったのだと思います。
フーダニット作品に対する配慮というものについて、ミステリ作家として当然のお考えをお持ちだったからです。

【犯人はK.Kさんとわかっていても客がくるか、あるいは それゆえにこそ いっそう客が詰めかけてくるであろうという興行政策なのか、この稿が活字になる時分には答えが出ているはずである。】

そのK.Kさん犯人の『悪魔の手毬唄』はヒットし、「原作尊重主義が徹底」(『真説 金田一耕助』「ブームやつれ」より)されて、まさに横溝正史ブーム到来から隆盛時、それでも横溝本人は、商業化に流されることはなく、どこまでもミステリ作家、探偵作家として、“犯人は誰か小説”の映像化について、ミステリ・探偵作家としての意見、考えをお持ちでした。

そこには、とどのつまり映像と原作は違う、やはり犯人は最後まで明かされるべきではない、という書き手の確固たる信念がおありだったように、私には思われてなりません。

【犯人の意外性にとんだ小説に感激しても、それをまだ読んでいないファンに語ることはタブーとされている。】

そうしたフーダニット作品は、映像化されるにあたっては、やっぱりそれなりの配慮がなされてしかるべきなのではないか。
そう横溝正史は考えていたように思われますし、それはまたミステリ・ファンの思いでもあります。

けれども映像、映画化となると、制作サイドはどうしても宣伝効果を狙います。

フーダニット云々よりもまず、興行成績のために話題性を重視するので、キャストから、ああ、こいつが犯人だなと簡単に推測されようがお構いなし。
原作における犯人の意外性や、ストーリーの起伏ということよりもまず、あの俳優・女優が出るなら観ようかな、そう思わせることができるか否か、映像化ではそれがすべてというところがあります。

ですから今度の『犬神家の一族』、市川監督の手腕に期待するところ大であります。
キャスティングよりもまず作品内容に敬意を払った作り方をしてほしい。
最後まで飽きさせることなく、原作の素晴らしさを引き出しながら、ミステリの醍醐味を追究する形で大団円まで引っ張っていってほしい、そう願ってやみません。

★ HAZUKI さん


>そうでしたか、TV版はいけませんでしたか。


イタダケマセンでした^^;


>ネタバレ的な作りにされると悲しくなりますね。
>ミステリとわかっていて、なんでそんな失礼なことをするんでしょうね。

映画化もされてヒットもしてるから 犯人が誰かなんて皆、知ってる… そういう声も聞こえてきそうな気はするのですが やはり、そこはねぇ…^^;


>『獄門島』からは離れますが、ちょっと おしゃべりさせて下さい(^^ゞ


お、良いですね… 望むところです。^^


>横溝正史は『真説 金田一耕助』の「Whodunit の映画化」というエッセイの中で、『オリエント急行殺人事件』が映画化されたおり…


【 引用なので、省略しました スイマセン 】


>『真説 金田一耕助』には、角川映画が当たるか当たらないか、そのことを気に病んでいる文章が多々見受けられます。


HAZUKIさんの この記述を拝読して『真説 金田一耕助』の その部分をまざまざと思い出し、正直言って涙ぐんでます。(ToT)


>原作者である自分のためにではありません。

>どこまでも制作した側のために、ヒットしてほしいと願っていたのです。
>かように心の広い、気持ちの優しい氏でありました。


私は まだ、横溝先生のような広い御心の境地には至っていない。

いや、むしろ一生、至ることは出来ないな… とも思いました。


>『悪魔の手毬唄』についても、決してK.Kさんを非難していたのではなく、こうした宣伝方法もありなんだなと、純粋な驚きを感じておられたのでした。

>だからこそ、この「Whodunit の映画化」というタイトルを掲げたエッセイをお書きになったのだと思います。
>フーダニット作品に対する配慮というものについて、ミステリ作家として当然のお考えをお持ちだったからです。


そうですね、御自身の書かれた作が「ミステリー」であるという強い自負があったのと、『真説 金田一耕助』など 横溝氏のエッセイの他の部分を読めば読むほど 横溝氏が持っていた大いなる読者へのサービス精神、それに茶目っ気を感じずにいられません。


>【犯人はK.Kさんとわかっていても客がくるか、あるいは それゆえにこそ いっそう客が詰めかけてくるであろうという興行政策なのか、この稿が活字になる時分には答えが出ているはずである。】


おそらく、横溝氏の本意とは違うと自覚してますが、私は こう思うのです。


映画の内容や原作がどんな本なのかを考慮せず、

「あぁ、K.Kさんが主役なのか… じゃ、その映画を見に行くか」

K.Kという役者さんが人気者であればあるほど そういう風に考えるファンがいる、そのファン心理は充分に判ります。

ただね、その映画がオリジナルの脚本で どんな内容か判らない…という物だったら その映画を見る・見ないの価値判断として 先に述べたファン心理で判断される…というのは大いに理解出来る。
(きっと、私も同じ様な判断をするとも思うから^^)

しかし、「横溝作品」が原作の場合 私は横溝ファンを死ぬまで辞める気の無い男ですから、「役者が誰で…」なんて基準で見る・見ないを決める事を看過する事は出来ません。

役者のファン心理は否定するつもりはありませんが、制作者側が そういう態度を全面にしたり、容認したりするのを「宣伝」とするならば もう、その時点で原作を蔑ろにしているものと感じ、その原作が「横溝作品」であるならば 少なくとも、それが今の時代の話だったら このブログでしつこいまでに非難し続ける事でしょう。^^;

たとえ、横溝氏御本人が笑って「それが興行政策なのか」と言われておられたとしても 私には笑える話では無いからです。^^


>そのK.Kさん犯人の『悪魔の手毬唄』はヒットし、「原作尊重主義が徹底」(『真説 金田一耕助』「ブームやつれ」より)されて、まさに横溝正史ブーム到来から隆盛時、それでも横溝本人は、商業化に流されることはなく、どこまでもミステリ作家、探偵作家として、“犯人は誰か小説”の映像化について、ミステリ・探偵作家としての意見、考えをお持ちでした。

>そこには、とどのつまり映像と原作は違う、やはり犯人は最後まで明かされるべきではない、という書き手の確固たる信念がおありだったように、私には思われてなりません。


全く、仰るとおりだと思います。


>【犯人の意外性にとんだ小説に感激しても、それをまだ読んでいないファンに語ることはタブーとされている。】

>そうしたフーダニット作品は、映像化されるにあたっては、やっぱりそれなりの配慮がなされてしかるべきなのではないか。
>そう横溝正史は考えていたように思われますし、それはまたミステリ・ファンの思いでもあります。


そう、それがミステリー作家にも そして愛読者にも求められる正しい姿勢だと思います。


>けれども映像、映画化となると、制作サイドはどうしても宣伝効果を狙います。

>フーダニット云々よりもまず、興行成績のために話題性を重視するので、キャストから、ああ、こいつが犯人だなと簡単に推測されようがお構いなし。

>原作における犯人の意外性や、ストーリーの起伏ということよりもまず、あの俳優・女優が出るなら観ようかな、そう思わせることができるか否か、映像化ではそれがすべてというところがあります。


そうなんですよ。^^;

だから、「~が出演した」って事で 全てが終わってしまっていて 物語や雰囲気や 作品そのものへの密度を考えてない物が多すぎますね。^^;

今度の「犬神家の一族」がキャスト重視よりも雰囲気重視である事を私も願ってやみません。^^


【※注意!!】

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