● 1リットルの涙 1-8話
第1話の放送から 先日の第8話まで「1リットルの涙」というドラマを見続けてきた。
実話が基になっているドラマだけに 所々に重く考えさせられるテーマがあり、一歩間違うと ただのお涙頂戴ドラマになりかねない危険性があった中で これまでの放送は とても良い視点で制作されているなと 私は思うばかりである。
難病とか奇病とか 不治の病には いろんな呼ばれ方があるけれど、基本的に共通なのは その病気になりたくてなった人はいないという事。
そして、いつ自分が そういう病に冒されるか判らないという事である。
重要な事は そういう病に冒されてしまった時、自分は どうするか? もしくは、愛する人、家族、親しい友人等が冒されてしまったら どう思い、どう考え、どう行動するのか? そういう事を このドラマは上手く考えさせてくれるように構成されているからなのだと思うわけで、健康な人は「自分は そんな病気にはならない」と思い込み、常日頃の健康管理を怠り、いざ病に倒れて初めて事の重大さに気づく。
そして、最も複雑な思いを抱くのは 病人に対する偏見や差別。
なりたくてなったわけでは無い病、誰でも冒される可能性が ほんの僅かとは言ってもある病、それなのに冒されていない人の中には 冒された人に対して、「気持ち悪い」「怖い」「うつされたらどうしよう?」等と敬遠したり、あからさまに排除しようとしたりする。
実際、病人にとっての苦痛は 病による痛みより、そういう人の気持ちの痛みの方が大きい場合があるのだけれど それは病にならないと判らないわけで、このドラマの様な構成だと ヒロインに感情移入することにより、ある種の疑似体験をした上で 心優しき視聴者達は 己を顧みる。
さて、回を重ねる毎に 主人公の病は悪化し、環境も 本人の願いも空しく刻々と変化していく。
そんな中で、先日の第8話に至り、偏屈な私の感性を大ハンマーでひっぱたくが如き、インパクトのある台詞に遭遇し、滂沱の涙を流すに至る。
それは 第8話のエンディング・シーンでの原作文の引用部にある。
終業式まで あと4日。みんなが私のために千羽鶴を折ってくれているようだ。
一生懸命折ってくれている姿を
まぶたの裏に焼き付けておこう。
たとえ別れても、決して忘れないために。
でも---「亜也ちゃん、行かないで」と言って欲しかった。
「1リットルの涙」より
念願叶って進学した高校ではあったけど、病のために授業についていく事が出来難く、同時に周囲のクラスメイトや教師、それに 家族に様々な負担をかける事などを考慮した結果、養護学校への転校へと至るわけだが、本人の意思とは別に 本人の心中の言葉は存在し、それが引用した言葉に表れていると感じるからだ。
つまり、私(ブタネコ)流の うがった解釈では
友人達が きっと私のために心を込めて千羽鶴を折ってくれているのだろう…その姿には素直に感謝して 良い友人達だったと彼等の事を
思い出にしまっておこう。 だけど、私が本当に欲しかったのは
千羽鶴や 千羽鶴を折ってくれる姿なんかじゃなく、
たった一言、嘘でもいいから
「養護学校に行かず、このまま この学校に通えばいいじゃん」という一言だった。
誰も その一言を言ってくれなかった…
それが、彼女にとっては「見放された」というふうに感じられた瞬間もあったのだな…と察せられ、文意から 彼女は それを悪意へと受け止めるのでは無く、良い意味で受け止めようとしているところも汲み取れる。
その心理を垣間見た時、この原作者自身の心の痛みが判り、とてもせつない。
言葉とは 実に難しいもので、何気ない一言が 深く相手を傷つける事がある事は 誰もが良く知っている。
けど、逆に 何気ない一言が無かったばかりに どこかに心残りの様な気持ちを芽生えさせてしまう事もあるのだという事を知っている人は少ない。
例えばの話だが…
東京出張を終えて札幌に戻ろうとしたある時の事、時間的にも余裕があるし、たまたま切符が手に入ったので たまには寝台特急「北斗星」に乗ってみようと考えた。
上野駅のホームで 駅弁や雑誌を買い、いざ車両に乗り込もうと思ったら、最寄りの乗車口のところで 寝台車に乗る老夫婦と それを見送りに来た息子(娘?)夫婦の4人が 別れを惜しむかのような風景に出会い、その4人に乗車口を塞がれる格好になってしまったものだから 別離が済むのを傍で私は見ていた。
やがて、ホームに その北斗星の発車を告げるアナウンスとベルが流れ、ようやく空いた乗車口から乗り込んで 切符で指定された席へと向かうと 偶然だが、先程の老夫婦と隣の席だった。
そして、列車は動き始め、一路 東北本線を北上し始めたのだが、動き始めて間もなく老夫婦の老婆が すすり泣きはじめたのである。
心配した様に慰める夫に 彼女が言った言葉は
「息子が 別れ際に”またおいでよ”と 言ってくれなかった」
そう言って、延々と泣いていたのである。
くだらないと言ってしまえば それまでだし、その老婆が気にし過ぎだと言ってしまう事も出来るかもしれない。
けど、その光景を見た時に 私は「あぁ、言わずに悲しませる言葉もあるのだな」と30過ぎたその当時、初めて気づいたものだった。
さて、現在放送されている「1リットルの涙」に関しては ヒロインの悲劇性ばかりを全面に出して ありがちな「お涙頂戴」的ドラマにならない様に配慮されている感があり、同時に先に述べた 病に対する世間一般の偏見の醜悪さを指摘しているところが良いと私は感じている…と既に述べた。
主演の沢尻エリカの好演にもよるとは思うが、制作者の配慮が私には感じられるからだと申し述べたい。
「その病気の子のために 授業が遅れる。」「その子を気遣うために クラスメイトに余計な負担が増える」それらが すべて、さもその病気の子のせいだと言わんばかりの論調に現れる・・・ これって 実は よくある話だったりする。
「当事者のためを思えば それがベストの選択…」
そんな言葉を便利に使う人がいる。
あくまでも極論だと判った上で思うのだが、死へのカウント・ダウンが始まった時 生きている間、身体が自由に動く間に 悔いの残らぬようにやっておきたい事のひとつやふたつがあったって それが人間じゃないか?と思う。
同時に、仮にそれがクダラナイ事であったとしても 病人にとっては「何か」をしている、出来ている間は「私は生きている」とか「私は まだ病気に負けていない」と思っていられるバロメーターだったりする。
この場合、原作者は、念願叶って通っている学校で 級友達と共に過ごしているだけで、まだ自分が完全に病に負けたのではなく、まだ普通の女の子の状態なんだ…と 心の支えにしていた感があるのだけど、その心の支えも 級友や学校の方から断ち切られ、「あぁ、私は 完全に患者になってしまった」と自他共に認める他無くなってしまった様に 私には思えるわけで だからこそ、級友達には けっして悪意など無かったにしても 彼女の心の痛みを招いた事に違いない。
短い引用文ではあるけれど その文章の中に秘められたいろんな思いには 念願だった学校が 実は、冷たい処だった… 病に冒される無念と、学校の無念 簡単に比較できるものでは無いが、私は そんな言い表せない複雑な思いが過ぎり 最も感極まった部分なのだ。
一人の前途多望な少女が 病で夢を絶たれてしまう。
でもね、その少女の痛みとは 病の痛みだけじゃなく、心の痛みという もっと大きな痛みがあるのを 私は少なくとも一つの例で知っている。
でも---「亜也ちゃん、行かないで」と言って欲しかった。
だからこそ この言葉が形を変えて 私の胸に突き刺さる。
