« 「海猿」 第7話 | TOPページへ | 真夜中の五分前 »

2005年08月18日

● 指先の花


一度は触れておこうと思いつつ、何故か本が 何処に行ったか判らなかったのだが、本日 書斎で発掘されたので触れてみたい。



指先の花

「指先の花」 益子昌一:著 小学館文庫


ただ、今回は冒頭でお断り申し上げておきたいのだが…


【注意】

 以下に述べる記事には 「世界の中心で、愛をさけぶ」の「原作」及び「映画版」と

 そして映画版ノベライズ「指先の花」の内容に関して 思いっきり、ネタバレしてます。


従って、以下を読み進める際は ネタバレに関して御了承頂いた場合のみに願います。


私(ブタネコ)には なんの責任も取る気はありませんので、悪しからず。




さて、冒頭において あらためて、もうひとつお断りしておきたいのは 「世界の中心で、愛をさけぶ」に関して とかく「映画版」と「TV版」を比較して ともすれば論戦になる事も よく見受けるが、私としては いままでの このブログ内で比較する様に受け止められても仕方の無いような発言を たしかに何度も行ってはいるけれど、基本的には「映画版」と「TV番」は別物として考える様にしてきたつもりで 出来るだけ比較の論議には参加しない、考察しない方向で考えてきた。


今後も、その考えは変えるつもりは無いので どうか、このブログ内の記事を読んでコメントを下さる際は その点に御留意頂きたく御願いします。


従って、この記事ではTV版に関しては 一切、触れるつもりは無い…と言う事も まず、断っておきたい。



で、今回 あえて、手をつけようと思ったのは かなり以前に 私は


「世界の中心で、愛をさけぶ」映画版


と言う記事で一度、映画版と「指先の花」に関して述べた事があるのだが、その当時はキャプ画を使用せず、尚かつ 極力、ネタバレを避けようという観点から 内容的には少々ボケた感もあった事は否めない。


そこを もう少し明確に語れ…という御指摘を頂いていた事もあって 今回、触れてみたいと思うのだ。


原作「世界の中心で、愛をさけぶ」を映画化する際 監督であり、脚本を手がけた1人である行定は「指先の花」の巻頭で こう述べている。

 この原作は今の世の中が忘れかけていたある何かを実感できる小説なのだと感じた。 愛することや、凄く愛していた人がこの世からいなくなったこと、そして残された人たちの痛切な思いが僕の実感とも繋がった。
 朔太郎は、運命の少女・アキと向き合い、ひたむきに疾走する少年で、アキの死をとらえてなお切実に生きてきた人物なのだが、原作の最終章に少しだけ登場する、現在の朔太郎の姿には「死」というよりも「生きる」ということを感じたことを記憶している。 それは、生きようとするポジティブさだけではなく、どこか生きてしまった主人公という印象だった。 と同時に、その男の「その先の未来」を映画で描ければ、これまでの自分の作品とも違う、観る人たちにも希望めいた何かを与えられる作品になるのではないかと感じた。


行定は 映画版のDVDのメイキング・インタビューの中でも 同様の事を語っている。


私は 原作に対して そこまで思い入れを抱く事が出来なかったので 上の考えに大きく同意する事は出来ないが、その結果 生み出された映画を観た時、いくつかの部分を除いて(理解出来なかった…と言う方が正確かもしれない) 映画じたいは とても切ないラブストーリーとして決して悪くないと思った。


個人的に原作よりも良いと思った点は


・タイトルにある「世界の中心」と言う部分を「ウルル」と明確に表した事。

故に 何故、サクとアキがウルルへと向かおうとしたか…と言う部分に説得力を原作よりも遥かに感じた。


・現代のサクに重点をおき、アキとの時代を回想とした事。

ゆえに、アキとサクの恋愛が光り輝いて映った。


・原作ではラストで ほんの僅か登場する現代のサクの恋人を”律子”という ひとつの明確なキャラクタ-を描いた事

そうしてくれたおかげで、個人的には不愉快そのものだった原作の”恋人”を それなりに理解出来るものに描き直して貰えた様に感じた。


映画版で肉付けされた それらのおかげで、私としては原作に対して不愉快極まりなく思っていた事が 大きく解消され、だからこそ


「とても切ないラブストーリーとして決して悪くないと思った。」


のである。


しかし、先にも述べた様に 映画版に対して「理解出来なかった」もしくは「まったく同意できなかった」部分も いくつかある。


世界の中心で、愛をさけぶ

 ・律子は何故、交通事故に遭う設定になのか?

小学生だった律子が アキから託された「最後のテープ」をサクに渡しに行く時、交通事故にあってしまい 渡せずに時は過ぎてしまう。

アキはサクに会う事もなく そのまま息を引き取り、サクはアキの死を引きずったまま その後、生き続ける…


「どうして 最後のテープが渡らなかったのか」


その理由づけが律子の交通事故… その設定が あまりにも安易に感じてならなかったのだ。


世界の中心で、愛をさけぶ

 ・何故、原作の祖父が 写真屋の「シゲ爺ぃ」に設定を変えたのか?

細かいこだわりと笑われるかもしれないが、オーストラリアへの旅費は 高校生には大金なのである。

「ウルルに行ってみたい」

「よし、行こう」

高校生が 簡単に言える金額では無いのだ。


だから、原作ですら 祖父とサクの関わりは 単なる祖父の想う人の骨を盗むだけでは無く、その旅費の捻出という部分にも記述がある。

世界の中心で、愛をさけぶ

なんとなくなんだけど、物語の展開上で どうしても結婚写真を撮る場面を挿入したい…そのためには 只の写真屋では無く、物語の重要人物を写真屋にしてしまえ… そういう作為的な匂いがプンプンする。


もしかしたら 映画でも「シゲ爺ぃ」はサクの祖父という設定なのだろうか? 私の理解力不足かもしれないけど そんな設定には思えない。


では、単なる知り合いなのか?… それにしては 親しすぎる。


そんな違和感が 物語から説得力を奪ってしまうのだ。


で、どうでも良い事なのだが…

世界の中心で、愛をさけぶ

 ・何故、高校生の大木がモーターボートを操縦して サクとアキを夢島に運べるの?

原作では 漁師の息子で漁船…という説得力がある。


映画では あえて、漁船では無い。


尚かつ、現代の大木はカフェバーの店長(オーナー?)みたいな雰囲気の設定にさえなっている。

世界の中心で、愛をさけぶ

【注】ちなみに 上記画像の手前の眼鏡の女性が渡辺美里です。 念のため^^

これは、現代において”律子”とサクが どのように出会い、婚約に至るか… その部分の辻褄合わせなのだろうと想像するが、率直に言って これも安易だ^^;




さて、映画だけを観て


「とても切ないラブストーリーとして決して悪くないと思った。」


そういう私だが、それは あくまでも サクとアキのラブ・ストーリーが切ない…というものであって 


世界の中心で、愛をさけぶ

「胸当たってるでしょ」


世界の中心で、愛をさけぶ

「どうして 私はサクって呼んじゃ駄目なの?」


世界の中心で、愛をさけぶ

「話してみたかったんだよ サクと」


世界の中心で、愛をさけぶ

「(付き合っても)いいよ」


という一連の流れには 郷愁もともなって とても切ない。


けど、大変、申し訳無いが”律子”に対しては 

世界の中心で、愛をさけぶ

何も感情移入できなかったし、極端に言えば 邪魔にしか感じなかった。


原作では不愉快にすら感じた現代の恋人だったが、 映画では 不愉快な存在とまでは至らずに済んだが、結局、現代のサクと律子のラブ・スト-リ-は 刺身のツマ程も 私を感動させる効果を 私は何も感じられなかったのだ。


だから、「決して悪くない」と感じつつも 手放しで「素晴らしい映画だ」とは言えなかったわけだ。




さてさて、映画を観てしばらくの後「指先の花」というノベライズ本の存在を知り、読んでみた。


すると、上に述べた映画版での難点のいくつかに「あれ?」という部分がある。


その中でも 最大の部分が「指先の花」では 律子は交通事故に遭ってない…のである。


では何故、最後のテープはサクに渡らなかったのか?


それは入院中だった律子の母親(映画内では田中美里)が急逝するからである。


また、サクと婚約に至る理由は恋愛の成就というより、律子の妊娠の方が大きく、その事でのマリッジ・ブルー的思考も 律子がアキの最後のテープを アキの恋人へ渡しに行く要因とされている。


私には この設定の方が交通事故よりも 遙かに説得力を感じた。


でね、冒頭に上げた 行定の


その男の「その先の未来」を映画で描ければ、これまでの自分の作品とも違う、観る人たちにも希望めいた何かを与えられる作品になるのではないかと感じた。


という部分に 私は注目する。


つまり、アキの最後のテープを聴くことで サクは前に向かって動き出せる。


同時に、そのテープを渡した事で律子も前に向かって動ける…


この一石二鳥を”偶然”という事で片付けたのが 交通事故であり、大木のお節介(サクに律子を紹介)なのだ。


実は 行定は


映画「世界の中心で、愛をさけぶ」で展開される物語は、偶然が結びつける運命のようなものがテーマになっている。 この世は、さまざまな偶然の結びつきに支配されていると僕は信じているし、現在の朔太郎に それを運んでくる象徴的なキャラクターとして藤村律子が生まれた。象徴的である以上に、律子自身も切実に生きている人物で無ければならないと思っていた。


とも語っている。


つまり、上記の一石二鳥的”偶然”が結びつける運命のようなものがテーマだと いうことなのだろう。


偶然という要因が 人生の中でしばしば 良い意味でも悪い意味でもイタズラ的に作用する事は 私の経験上も数多くあったので否定しないが、行定の言ってる事とやってる事の矛盾を 「希望めいた何かを与える」為の手法が 偶然の利用か?という部分に強く感じるのだ。


だから、私は 手放しで「傑作だ」と絶賛できなかったのだと ようやく理解する事が出来た。


しつこいようだが、引用を繰り返す事を お許し頂きたい。


 この原作は今の世の中が忘れかけていたある何かを実感できる小説なのだと感じた。 愛することや、凄く愛していた人がこの世からいなくなったこと、そして残された人たちの痛切な思いが僕の実感とも繋がった。


あの原作で?と 個人的には疑問を抱くが、そんな事は まぁ、良い。


ただ、映画版のストーリーのキッカケになったのは間違い無い事であり、事実である。


 朔太郎は、運命の少女・アキと向き合い、ひたむきに疾走する少年で、アキの死をとらえてなお切実に生きてきた人物なのだが、原作の最終章に少しだけ登場する、現在の朔太郎の姿には「死」というよりも「生きる」ということを感じたことを記憶している。 それは、生きようとするポジティブさだけではなく、どこか生きてしまった主人公という印象だった。


要するに 最愛のアキが亡くなった事による「喪失感」 それによる後遺症とでもいうような サクのその後の人生…って事なのであろうし、ラストの部分には これからはあらためて生きていくぞ… そんな感じも受けた…って事なのだろう。


と同時に、その男の「その先の未来」を映画で描ければ、これまでの自分の作品とも違う、観る人たちにも希望めいた何かを与えられる作品になるのではないかと感じた。


「観る人たちにも希望めいた何かを与えられる」 それを表現する手法が…


映画「世界の中心で、愛をさけぶ」で展開される物語は、偶然が結びつける運命のようなものがテーマになっている。 この世は、さまざまな偶然の結びつきに支配されていると僕は信じているし、現在の朔太郎に それを運んでくる象徴的なキャラクターとして藤村律子が生まれた。象徴的である以上に、律子自身も切実に生きている人物で無ければならないと思っていた。


映画のテーマを「偶然が結びつける運命のようなもの」とし、アキの最後のテープが渡らなかった理由、そして それを運んでくる律子… という事なのだ。




映画版「世界の中心で、愛をさけぶ」は 奇跡の物語、奇跡の映画だと評する人がいる。


私に言わせれば 駄作にならず、逆に


「とても切ないラブストーリーとして決して悪くない」


そう思わせて貰えた事こそが「奇跡」だったんだな…と 今にして思う。


おそらく、それは 森山未來と長澤まさみの熱演があったればこそ その結果になったのだとも思う。


もし、貴方が時間と興味があるのなら「指先の花」を読まれてみる事をお勧めする。


原作本なんかより遥かに感動できるし、映画版に何が欠けていたのかが 嫌でも、よく判る。


で、最後に個人的事情を含めて 一言、言わせて貰えば、「原作」、「映画」、「指先の花」 その全てに共通して 私が不満に思い ともすれば不愉快に思うのは


  「白血病をアイテム扱いにしやがった」



という事である。


別に、「白血病」じゃなくても、それこそ「交通事故」でも良かったのである。


ほんのちょっと描写を変えて補う表現力さえあれば「白血病」をストーリーに持ち込む必然性が無いとさえ言えるのだ。


無関係・無関心な観客・読者に「やばい病気だね」って「悲劇」としか印象を与えない事が、現実的に「白血病」と闘っている患者や それを支える家族や友人達に


「あぁ、やっぱり 生への望は薄いんだ…」


と、絶望感や恐怖感を与える事になりかねない… そんな事を配慮してると思えない事に腹立たしさがこみ上げるのである。


せめてもの救いは ドナー登録者が増えた…という事だが、それこそ原作や映画がキッカケと言うより、TV版の効果…という部分が大である。


いずれにせよ、行定よ 最悪の結果にならなくて良かったな。


お駄賃

 気が向いたら…で結構です。^^;

 この記事への御駄賃がわりに下のバナ-のいずれかを クリックして頂けると嬉しいです。^^
 (全部、クリックしてくれると もの凄く嬉しいのは事実です。^^)

ブログランキング・にほんブログ村へ Blog Ranking 人気映画・TVBLOG blogram投票ボタン BlogPeople「自分のこと」部門にクリック BlogPeople「テレビ」部門にクリック BlogPeople「映画」部門にクリック

『映画版』関連の記事

コメント

偶然が結びつける運命ですか・・・

私が映画版にはまらなかった最大の理由は
大木の店で偶然見たTVに偶然映った律子を見るところです。
あんなのって無いでしょう。
あいた口がふさがらないとはこの事でした。
あれが為に全然物語に入っていけなかった。

しかも物語が終わってみれば、あの時点でサクも律子もお互い昔に亜紀を通じて会っていたという事を知らなかったのだから、律子が行き先を告げていても別に問題は無かったはず。

まあ、あと偶然テープを発見したカーディガン、あれをしまう時にテープを発見できなかったのか?とか(その前に洗濯もしてただろうに)、それらが監督の言う偶然の運命だとしたら私にも説得力はありません。

★ うごるあ さん

なるほどなぁ… たしかにそうですね^^;


ブタネコさん、こんにちは。
先日の映画放映を見て、とても心に残る作品となりました。
長澤まさみちゃんといえば、ブタネコさん!と思い関連記事を読ませていただきました。
(下のお猿さんのCM、懐かしい!)(笑)

私はこのドラマ版が放映されたとき、世間をにぎわした映画のドラマ化ということで
まだレビューも書いていなかったし、あまり興味を持たず、
ちゃんと見ていなかったんです。
映画版の矛盾を補った、丁寧に作られたドラマだったんですね。
今はちゃんと見ていなかったことが悔やまれます。

TB送らせていただきますね!

★ ちーず さん

どうも御無沙汰しております。^^

TB返しを送りたいのですが、このところウチのブログの調子が悪く
TBがなかなか発信できません^^;

今月からの新番組で また御世話になると思います どうかヨロシク御願いします。

それとTV版「世界の…」是非 御覧になる事をお奨めします^^

う~ん、こういう書き方をすると映画びいきになってしまうんですが、ちょっとだけ。

戦争や時代のせいにしてるけど、結局は片思いのままで
ほかの誰も愛することができずに50年経ってしまった・・・。
ある意味サクより重症なわけですが。
だから生きてる間は無理だけど、亡くなった今なら
せめて彼女の一部分でも自分のそばに置きたい・・・。
サクとは逆パターンで生きている時には何の思い出も作れなかったのに
それでもなお、死んでから彼女に会うことを願いながら生き続ける「もう一人のロミオ」
として描かれる。

・・・一人の人だけを思い続ける・・・ことにこだわるなら、
重じいを「結婚させるわけにはいかなかった」サクとは血のつながりのない、
近所の名物爺さんにする必要があったのではと。
現代の都会では無理でも一昔前のこういうのどかな街なら
結構そういう近所づきあいってなかったですか?

骨を盗みに行くシーンで死んだら終わりだろっていう、
サクのそっけないセリフにさみしそうな顔をするアキがいて、
それが忘れられるのがコワイからと結婚写真を撮るシーンにつながる。
ガラス越しのキスを自分からしようとするのも
サクが持ってきた婚姻届がアキにとって「夢」で
サクが自分に生きる希望や病気と闘う勇気を
与えようとしたんだと解釈したからだったのではと。
キスさえもったいぶるような純愛映画にしてましたからね。

律子を登場させたことでのつじつまあわせは
確かに苦しいもんがあります。(笑)
ただ、台風をキーワードにしたかったという意図がありありで。
欠航で連れて行けなかったオーストラリア。
その直後の死。台風がアキにつながる悲しい条件反射なら、
台風で欠航したことで律子と再会できて、
そのあとオーストラリアに2人で行くことに意味をもたせたかった。
・・・というふうにはとれないでしょうか?

小説で盛り上がらなかった部分を映画で泣いて、
さらに映画の矛盾や当時の周囲の思いを補足することでさらに
完成度をあげたドラマ版とこちらでは解釈しました。
まあ、どのみちドラマをみていないAgehaには
ここまでしか語れませんが。
言いたい放題でどうも・・・。

★ Ageha さん

>小説で盛り上がらなかった部分を映画で泣いて、
>さらに映画の矛盾や当時の周囲の思いを補足することでさらに
>完成度をあげたドラマ版とこちらでは解釈しました。


その受け止め方は 大いにアリだと思います。^^

【※注意!!】

この記事は『ブタネコのトラウマ』の倉庫に保管されている記事なのでコメントの投稿は出来ません。 2015年2月10日以降 このクソブログは『ブタネコのトラウマ・リニューアル版』に移転しましたので新規記事更新及び、過去記事へのコメントの受付もそちらで行っておりますので お手数ですが、そちらへの移動をお願い申し上げます。