● ブタネコ的 ソラノウタの考察
「最愛の人」という表現は なにも相手が「恋人」だけとは限らない。
親にとって「最愛の娘」というのも「最愛の人」と言えるでしょ?
何度も述べた事だが、私が 原作を読んで不愉快に感じたのは「サク」という彼氏の視点でしか語られていない為、そこに登場するアキの両親の描写が薄く、ともすればサクのワガママや 独自の屁理屈で論理が展開しているわけで そこに説得力を感じる事が出来ず、そのサクの論理に同意しかねる部分が大きかったからである。
特に、死んだアキの灰を撒けずに持ち続けておきながら 新しい彼女と訪れた母校でアッサリと撒くラストには
「それじゃぁアキが可哀相じゃねぇか?」
と、腹立たしい思いが強かった。
映画では 映画なりに その辺の理由づけを「律子」という女性を登場させ、律子のエピソ-ドにより補っているが、そのぶん 祖父のエピソ-ドが希薄になったり、原作と同じ様にアキの両親と言う部分も おざなりだったのが不満に感じた。
理由はハッキリしている。
私が 年頃の一人娘を持つオッサンである事と 高校時代に 白血病で亡くなった”亡き友”の親父さんに対する敬慕とも言うべき感情を棚にあげる事が出来ないからだ。
TV版のアキ父(三浦友和)は最高だった。
掛け値無しに、演技、台詞 なにもかもが最高だった。
登場シーンの全てに 亡き友の親父さんがオーバーラップして もう、どうしようも無いぐらい泣けて仕方が無かった。
そんな TV版のアキ父に対し
「アキが遺した絵本(ソラノウタ)を17年間 サクに渡さなかったのは酷い」
と、評した友人がいるが、私は、私なりに その設定を充分に理解出来るから 勝手ながら弁護をしてみたいと思う。
で、それを語る前に ひとつ余計な推論を述べてみたい。
それは、
「サクは いつアキの遺灰を手に入れた(小瓶に詰めた)のか?」
という疑問である。
祖父の恋人の時の様に 墓から盗んだのか?
私は ウルルでアキの両親と散骨する際に、撒けずに握りしめた遺灰を ハンカチに包むなりして密かに持ち帰り、アキ父は ウルルでサクも撒いたものと考えていたが、実は密かに小瓶に詰めていたのだと思っている。
(以上は ブタネコの勝手な個人的推測です)
さて、今回の本題だが…
よく考えて(思い出して)みて欲しい。
アキが病に倒れ 真島という青年と出会って以降を 映像で見ている我々視聴者は「ソラノウタ」は アキがサクに宛てた誕生日プレゼントであり、遺言なのであろう…と 理解する。
しかし、視点を変えて アキ父やアキ母の視点で見直して頂きたい。
アキの死後、遺品を整理していて この絵本をアキ父が見つけ、アキ母に見せる。

この絵本は アキが病室でコッソリと作っていたものだから その時、気づくまで両親も その絵本の存在を知らなかったわけだ。
で、絵本を開いて中を見る。
「ソラノウタ」と題された絵本の中の言葉は
生きていくあなたへ
もしも、おまえが枯れ葉って
何の役に立つのって聞いたなら私は答えるだろう
病んだ土を肥やすんだとおまえは聞く
冬はなぜ必要なの?すると私は答えるだろう
新しい葉を生み出すためさおまえは聞く
葉っぱは何であんなに緑なの?そこで私は答える
なぜって
奴らは命の力に溢れているからだおまえは また聞く
夏が終わらなきゃいけないわけは?私は答える
葉っぱどもが みんな死んでいけるためさおまえは最後に聞く
隣のあの子は何処に行ったの?すると私は答えるだろう
もう見えないよ
なぜなら おまえの中にいるからさ
おまえの足は あのこの足だがんばれ
これって、最愛の娘を失った二人宛にも 当て嵌まるメッセ-ジだと思いませんか?
(もっと踏み込めば 視聴者である我々へのメッセ-ジにも受け取れる)
この時、両親には 最愛の娘から 自分達に対して
「生きていくあなた(両親)へ」と
一時的ながらも、受け取れたんじゃなかろうか?
私には そう思えてならないのだ。

「最後のワガママ」とテープに言い遺して ウルルへと向かった娘。
死を覚悟して旅立つ時に
「生きていくあなたへ」~「がんばれ」
というメッセージは、最愛の娘を失った喪失感から 一歩一歩、抜け出して行く時に この絵本は大事な遺品であり、かけがえの無い娘からの メッセ-ジになったんじゃなかろうか?
それは あたかもサクがアキの遺灰を「アキが死んだ事を忘れない為に」持ち続けた様に両親が生き続けていく上での 心のハリの様なものとして…。
確かに、落ち着いて考えれば この絵本は 娘からサクへと贈られるべきものと両親は気づいていたかもしれない。
では、何故、気づいて直ぐに サクへ渡さなかったのか?
タイミングとしては ウルルの散骨の前後が望ましかった様な気がするが、私には この時、アキ父は あえて、渡す気が無かったと思うのだ。
それは…
【第9話】

サク父に結婚写真を撮って欲しいと頼む時の アキ父の言葉の中に 結婚写真を撮る事で将来的にサクに影響を与えるんじゃないか?と危惧している旨を サク父に吐露している。

結婚写真に関しては「こんな風に幸せになろうって頑張るんじゃないですか?」と言うサク父に同意を得て写したわけだが…
アキ父は サクに対して 娘の恋人だった事、娘が最後に幸せを感じさせて貰えた相手、そんな様々な事柄から サクに対して他人とは呼べない感謝と思いやりを抱いていたと思うのだ。
だからこそ、
「もしかしたら、これ(ソラノウタ)を渡す事で サクに 再び、悲しみを思い出させてしまうかもしれない… 娘との想い出を引きずってしまうかもしれない…」
そういう風に考えたんじゃないかな…なんて思うのだ。
(まさか、娘の遺灰を小瓶に詰めて持ち歩いているとは知らずにね)
その後、時が経って、高校卒業と同時に サクは人知れず宮浦を去ってしまい 渡す機会も失われる。
だが、17年経って会ったサクが

その17年間、娘を忘れきれずに引きずってきた様を見れば 逆に、フッ切れさせるために 今こそ、渡すべきだと思ったんじゃないかな…。
だからこそ、
(アキ父)「持って行こうとも思ったんだが、顔一つ見せない人間に
わざわざお受け取り願う義理も ないかなと思ってね…
まだ独りらしいな?」(サク)「はい」
(アキ父)「お父さん、お母さんが 心配してらしたぞ…」
(サク)「そろそろとは思ってます」
(アキ父)「そうか」
(サク)「はい」
(アキ父)「もう忘れたか 亜紀のことは」
(サク)「どうなんでしょう…」
(アキ父)「失礼だぞ、相手の女性に」
(サク)「きっと、これから だんだん忘れていくんでしょうね… すいません」
(アキ父)「寂しいんだろ… 俺もそうだ、
見たくないことまで 夢に見ていたのに見なくなってね
そのうち、思い出すのにも時間がかかるようになって…
あの時はどうだったか?って 女房に確かめるようになって…
でも、忘れたいのでも 忘れないのでもなくてね
人間は忘れていくんだよ 生きていくために…
まぁ、そんなことは お医者様に説教してもな…」
という台詞に至るんじゃないかな…と思う。
この台詞の最初
「持って行こうとも思ったんだが、顔一つ見せない人間に
わざわざお受け取り願う義理も ないかなと思ってね…」
という部分は アキ父の負けず嫌いな性格と 本当は自分(アキ父)にとっても大事な品なんだ…という気持ちと サクに対する感謝や優しさが入り混じった 実に見事な脚本だと思う。
そして、最後の
(アキ父)「よく頑張ったな… サク、
生死を扱う仕事は辛かっただろう
もう充分だ、ありがとう」
この台詞で 撃沈です。 私は。
何度も言うが このTV版の演出と脚本は 本当に素晴らしい。
情感の機微を よく理解した演出であり、台詞まわしだと思う。
余談だが、正直言って、もし私が アキ父だったら…と考えた時、私は感謝の言葉を告げても「ソラノウタ」は サクには渡さないと思った。
それは 私が欲張りである事と、やはり娘の大事な遺品である…という事からである。
けどね、そんな私が 上記の考察を語ったのは 我が”亡き友”の親父さんであれば 間違いなくアキ父の様な行動を取ったと思うからで 私は自分の事しか考えていないが”亡き友”の親父さんは いつも我々、娘の友人達に気を配ってくれる人だったのだ。
実際、盆暮れの暑中見舞いと年賀状を 毎年欠かさず送ってきて、必ず
「元気か? 相談事があるなら いつでも来いよ…」
と書き添えてあったものだ。
我が家は 嫁と私と夫婦なのだから 一軒に一通で良いのに、必ず 私宛と嫁宛と それぞれ1通づつ ちゃんと分けて送って寄越す そんな律儀な人だったのだ。
先にも、述べたが、私はサクに「ソラノウタ」を絶対に渡さないと思った。
それを思うと まだまだ、”亡き友”の親父さんの様な器の大きな大人になり切れていない事に気付き ただただ、恥じ入るばかりである。


