● カルネアデスの板
「カルネアデスの板」という言葉・表現がある。
既に 御存じの方には申し訳無いが、知らない方の為に ちと説明をさせていただくと…
古代ギリシャの哲学者、カルネアデスが弟子に出した問題に
乗っていた舟が難破・沈没し、大海原に 二人だけが生き残ったとする。
そこに一枚の板が流れてきたが二人が同時に掴まると、板は沈んでしまう。
つまり、板に掴まって救助を待てるのは ただ一人。
自分が助かるためには その板を占有しなくてはならないが、
自分が その板を占有すると言う事は 自動的に、
その場にいるもう1人の死を意味する…。
という前提、つまり…
大海原に ポツンと自分と 別のもう1人が 2人だけ漂っていて、このままでは双方とも体力が尽きると同時に溺れて死んでしまう…
そんな時に その2人の間に「1人だけが掴まれる板」が浮いていた。
さぁ? どうする? という意味でもある。
板を譲って 自らは死を選ぶ…のも 一つの選択肢、板を占有して 自分が生きよう…というのも 一つの選択肢である。
しかし、双方が それぞれ自らが生き残ろうと欲すれば、板の奪い合いとなり、その結果、片方が片方を殺してしまう…事にもなるわけで その場合、見方によっては 自分が生きようというエゴによる殺人じゃないか? という場合にもなる。
現行法では この様な状況下では、自分の生命を守るために、たとえ もう1人の相手を殺してしまったとしても 法律上の殺人罪には問われない。
法律的に言えば「正当防衛」の解釈の一つとも言えるが、「緊急避難」という意味合いになる。
カルネアデスと言う哲学者が
「そういう状況に置かれたら 君ならどうする?」
という意味合いと
「そういう状況で人を殺してしまった場合、罪を問うべきか?」
という意味合いを含めて問題にしたのは これは現代にも綿々と繋がって伝わっている事でもあるが、これは単純に 罪と認めるか否か?という問題として結論を出すにしても 結論を出した後に、道徳的な意味、感情的な意味、哲学… いろんな状況において葛藤をもたらし、似たような状況に 誰もが実は直面する事があるからだ。
だから、この「カルネアデスの板」は いろんなドラマや小説でも登場する。
最近の…として パッと思い出すのは「金田一少年の事件簿」のエピソ-ドのひとつにあった。
それに映画「タイタニック」のラストも ジャックは死に、ロ-ズは生き残る… 形を変えた「カルネアデスの板」と言える。
愛し合った者二人が 相手を思いやり、片方が自ら… 残された者には葛藤が… 三文ラブロマンスには 掃いて捨てるほど応用されるシチュエ-ションでもある。
「俺は 自分が生き延びる為に アイツを殺してしまった…」
そういうトラウマを引きずったり、その時に死んだ者の家族や友人達から
「オマエが死ねば良かったに」とか、「オマエが ~を殺したんだ」と恨まれ続けたり…
そういったものに対して ひとつの結論付けとして「カルネアデスの板」という問題は究極の「正当防衛」的意味合いで「緊急避難」として認める(許す)べき…という指針となっている。
さて…
今回、思い出した様に この事を持ち出したのには訳がある。
日頃から 私が糞新聞と目の敵にしている「朝日新聞」が また、お得意の 事実をミスリ-ドするかの如き記述を行っていたと知ったからだ。
ネタ元は
『掲示板』の中にある
『 「戦艦大和ノ最期 残虐さ独り歩き」。 』という記事であり、
その大元は
という記事である。
話の詳細は 上の二つの記事を参照して頂けるとありがたい。
今回、ここで私が述べたいのは これまでに一般読者の気づかぬ所で 朝日新聞が仕掛ける ある種のマインドコントロ-ルの様な記事に対する指摘である。
特に 今年は戦後60年の節目の年…と言う事と 先頃の中国や韓国の半日キャンペ-ン等の影響もあって昭和史の見直し…歴史の再認識という意識が強まっているようだ。
これは決して悪い事では無い。
しかし、公正中立を旨とする天下の朝日新聞の様なメディアが 偏った方向に読者を誘導する記事、結果的に誤報だった事が判明した記事を 全く、訂正しようともせずに 上塗りを続けるような頑迷さは いい加減、糾弾されるべきと思う。
たとえば、上記の『戦艦大和の最期』(吉田満:著)という書は 世界最大、不沈艦と呼ばれ 帝国海軍の象徴とも呼ばれた戦艦「大和」が沈む模様を克明に描写した ドキュメントとも言える書である。
その書の中に 沈没後、海面を漂う漂流者を救助していた船が もうこれ以上は載せられない…と その救助を指揮していた指揮官が 助けを求めて船縁を掴んでいた漂流者の手を軍刀で切り落とした…という記述がある。
朝日新聞は その部分だけをクロ-ズアップして 戦争の悲惨さと共に軍や軍人の醜悪さ…という方向に 読者をミスリ-ドする。
しかし、この事が事実か否かは別にして 私が指摘したいのは 朝日新聞ともあろう公正中立であるべき者が「カルネアデスの板」に関して 全く考慮せずに記事・論調をまとめる その姿勢である。
おそらく、これが 台風などで遭難・漂流した船で起きた事件なら 間違いなく「カルネアデスの板」が朝日の記事の論調にも適用されたはずである。
ところがね、朝日新聞は 殊更、戦争とか軍隊とかが絡むと ヒステリックに かつ、アレルギ-の様に 拒絶反応を示しすぎる。
だから、この『戦艦大和の最期』の記述の利用の仕方にしても 場所が戦場で、切ったのが軍人で、切られたのが救助を求めていた漂流者…という部分に過剰な反応を示し、「カルネアデスの板」による思考を適用しようとはしない。
仮に、この事件が事実だったとして、そこから 朝日新聞は読者に何を伝えたいの?
行き着くところは「軍隊は恐い」「日本兵は 酷い事ばかりした」 ハッキリ文章にせずとも、常にそういう帰結となる。
太平洋戦争前、昭和の初頭の時期に「天皇陛下万歳」「皇軍賛美」を盛んに唱えたのは「朝日新聞」や「毎日新聞」だったじゃない?
そりゃ軍からの圧力だとか 時代背景だとか、そういったものの要因はあるだろう。
でも、読者=国民を 間違った方向(現在のメディアは決まってそう言う)にミスリ-ドした責任は 当時のラジオ放送や新聞には無いのかい?
その反省がトラウマとなって 今の様に「戦争アレルギ-」みたいな姿勢を取ってるのなら 「過剰な反応という姿勢」が「中立公正な姿勢」と言えるのか? と、あらためて問い詰めたいのだ。
同時に 昭和初頭の歴史の再認識が進めば 当時のメディアに対する批判も噴出するのを怖れて 全ての責任を軍や政治家や天皇に向けようとするのかね?
私が 常に「朝日」「毎日」等に求めたいのは 誤報を行った時や 後に、報じた記事が間違っていた事が判った時の責任取り方を もっときちんとしろ…という事だ。
「戦争反対」を唱えて その結果、「自衛隊批判」を繰り返す姿勢もいいけれど 自分の自浄努力もきちんとしろ…と言いたいのだ。
「戦時中の軍隊は あんな事やこんな事をした…」
口角泡を飛ばす勢いで批判を行い続けるもいいけど、たまには
「その頃の当社(朝日や毎日)の新聞は こんな紙面でした…」
と、今の一般大衆に とりあえず見せるぐらいの事をしてみろ…と言いたいのだ。
もし、興味があるならば市立図書館などに行って見てみると良い。
今の文面とは違いすぎて、顎が外れるくらいビックリするよ。
どれだけの読者が その紙面から感化され、影響を受けて世論を作り 戦場へと向かって行ったか… その責任の全てを軍や政府に押しつけきったままだよね。
そういうメディアの影響の怖さを 自分自身で知ってるはずなんだから、誤報とか 事実無根だったと結果的に判った時の対処や 記事ひとつ組む時の 内容における公正中立の度合いとか… そういう部分の自浄努力を きちんとしろと言いたいのだ。
さて、今回、『戦艦大和の最期』の記述に関して反論が出た。
著者である吉田満氏も その反論を認めるかの如き書簡もあるという。
「手首切り事件」じたいは 別の場所で「陸軍輸送船において生じた」事実であるが、「大和において生じた事件では無い」そうだ。
私は 仮に誤記だったとしても 著者である吉田満氏を責めるつもりは無い。
私の勝手な解釈だが、吉田氏は
「助けたくても助けきれずに 海の屍となった乗組員達がいた…」
という主旨を 読者に伝えたかったのだと信ずるからである。
間違っても、その指揮官を糾弾せよ…という意味では無いだろうし、海軍に従軍していた兵達を辱めようという気持ちは無いはずだと信ずる。
ゆえに、それを 鬼の首を取ったかの如く 辱めようとする論調に利用する「朝日新聞」の主旨をねじ曲げる引用の姿勢に不快を抱き、反論を掲載し、世に問うた「産経新聞」には喝采をおくりたい。
以前、「竹島問題」の時もそうだったが、このところの「産経新聞」の姿勢には 心の底から賞賛を惜しみたくない。
そうやってメディア同士が論戦して 真実を糾明するのもメディアの正しい姿のひとつだと思うからだ。
しかし、いつも そうなんだけど「朝日」は自分が不利になると無視なんだよな。
