● あいくるしい…に感じた事。
拙ブログの常連コメンティタ-である「うごるあ」さんより…
ブタネコさんの「あいくるしい」又は「野島伸司」批評を聞きたい人もたくさんいると思いますよ。
と、話をふられ、ちょっと その気になって語ってみようと思い、今回は いつもの様に「あいくるしい」をPVとしてでは無く、ひとつのドラマとして見た場合、ブタネコ的には どう見えるかを語ってみる。
というわけで、間違っても「あいくるしい」が まともなドラマの作品だと ブタネコが思っているわけじゃ無い事を まず、冒頭にて お断りしておきたい。
さて、私が思うに TVドラマの良し悪しは鑑賞後 心に残るか否か…で決まるんじゃないか?と思っている。
たとえば、見ている最中に 感極まって泣かされてしまう作品が、よくあるけれども あらためて その作品を もう一度、見直した時に 最初に見た時のように 泣ける場合もあれば 時には ほとんど泣けないものもある。
この場合、前者の様な作品の方が 後者の様な作品よりも はるかに「泣ける」作品として 心に残る作品と思う。
そして、さらに 心に残る一段上のレベルだと 「あなたが 見て 泣けたドラマは なんですか?」と 誰かに聞かれた時に パッと すぐ思い浮かべる作品であろうと思う。
これは、「泣ける」ではなく、「笑える」でもいいし「何かを考えさせられる」でも 同じ事。
そして、本当の意味で 心に残る作品とは 「泣けて、笑える」「泣きながら 考えさせられる」等 いろんな部分が総合されて 心に残った物なのではなかろうか?
さて、現在 TBS系で毎週日曜日の夜9時から放送されている「日曜劇場 あいくるしい」に関して 当初より、私は「野島伸司」という脚本屋が 大嫌いだ…と明言した上で 辛口評価を述べてきた。
しかし、いくら私が野島嫌いを語っても その感慨とは真逆に「野島ファン」と称する人々も少なからず存在する事を 私も知っている。
そういう「野島ファン」の方にとっては 私が述べている事などは 野島伸司の醸し出すファンタジックな世界を汲み取れない 感性の乏しいやつ…ぐらいに思われてしまうらしいが、そんなのは どうでもいい話である。
だから、今回は あえて そんな私の「野島嫌い」を ちょいと棚に上げ、「あいくるしい」を ひとつの作品として見た場合 私が、どう思うかを実験的に述べるとする。
まず、このブログ内にある TV版「世界の中心で愛をさけぶ」に関する いくつかの記事の中で 私はTV版「世界の中心で愛をさけぶ」を
「今まで見てきたドラマの中でも 3本の指に入る作品」
として高く評価しておきながら、「世界の中心で愛をさけぶ」の原作に関しては 駄作と呼ぶに近い作品とまで嫌悪している…と述べた。
原作のあるドラマの場合、その多くが「やっぱり原作のほうが面白いね」という 結論に至る事が多い中にあって こういうケ-スは極めて稀である。
原作を駄作と呼ぶに近い作品とまで嫌悪している理由は いくつかあるが、その中でも 特に大きな理由は
「白血病を アイテムとして安易に扱う(利用した)」点である。
言い方は悪いが、廣瀬亜紀という少女が 若くして世を去る… その理由として 単に「白血病」が用いられたに過ぎず、流れから言えば 別に白血病jじゃなくても、不治の病であれば なんでも良かったんじゃないか? とさえ思えるところにあるわけで、「白血病」という病気が一般に抱かせる難病というイメ-ジを ただ単に、亜紀の悲劇を印象強くするための うってつけのアイテムに利用しているに過ぎず、実際に 白血病に苦しむ人々への救いや、優しさや配慮になんか考えていないと感じたのだ。
原作は あくまでも朔太郎の視点で 亜紀と朔太郎の二人だけの物語のみが展開されているに過ぎない。
亜紀が 呆気なく即死するのではなく、ジワジワと病に蝕まれていき、死に至るまでの過程での触れ合いを ひとつの「純愛」として描く事が本旨であって、「白血病」そのものは 読者に 「そりゃ大変な病気だから 仕方が無い」と 納得させるための うってつけのアイテムに利用しているだけ…と映るのだ。
これは、「世界の中心で愛をさけぶ」の原作に限らず 「白血病」が描かれる これまでのドラマや小説には 数え切れないぐらい用いられた手法である。
で、その手法を目にする事が 私は心の底から大嫌いなのである。
それは 別記事で何度も述べた事だが、高校生の時に 亜紀の様に白血病で亡くなった同級生の存在があるからなのだが、この「白血病」と 似た様に話の筋書き上で よくアイテム的に利用されるのが身障者や心障者である。
こういった問題は 社会的に、そして福祉的に まだまだ理解の足りない問題である。
だから、そこに無理解による差別や偏見などが生じ、悲しい事件や状況が生じる事が多いので、それを あたかもヒュ-マニズムに訴え光りを与えるかのごとき振る舞いで 小説やドラマのネタに使われる事も数多い。
けれども、これまでの数々の作品の多くは 社会正義を唱えるかの如く様相を呈しながら、実は 製作者側に無理解や勉強不足が多く、ほんの些細な設定や台詞から 見ている身障者たちを逆に傷つけてしまった事のほうが はるかに多いから 余計に腹が立つのである。
つまるところ、製作者側の傲慢であり、自己満足にしか過ぎなかった…とさえ言えるのだ。
さて、前フリが長くなってしまったが 本論に入る。
「あいくるしい」には いろんな設定のキャラクタ-が登場している。
まだ、最終回が終わったわけでは無く、今後の展開が不明なままなので 現段階においては 話をするタイミングでは無いだろうなぁ…とは思うが、そこは どうかお許し願いたい。
で、あえて申し上げてみたいのは
・なぜ「ほのか」は 耳の不自由な女の子…という設定にしなきゃならなかったの?
・なぜ「車椅子の少女」という設定が必要だったの?
・なぜ「パンチドランカ-」の元ボクサ-という設定が必要なの?
・なぜ「不倫相手」が「怪物」と大げさに呼ばれるの?
・なぜ矢口と瀬戸を 腹違いの兄弟として設定する必要があるの?
・南果歩夫婦が離婚する話を盛り込む必然性は何?
・なぜ 話の中で時折、「都会」と「田舎」の対比に触れる必要性があるの?
そんな疑問を抱きつつ ふと、公式HPにあった「あいくるしい」の企画意図を読むと…
人間の礎になるもの。
それは、「家族」です。
家族との関係が希薄になり、新聞には親殺し・子殺しの記事が当たり前に載ってしまう時代。
古きよき時代にはあった「絆」が消えつつあると言われています。
その「絆」を取り戻そうとしても、気恥ずかしさや周りの目を気にして家族愛を詠うことが面映い。
本当は、誰もがみな、心の奥底では、家族の愛に飢えているのに…。
―あいくるしい―それは、田舎町で暮らすどこにでもいるような家族の物語。
―あいくるしい―けれど、私たちが忘れてしまった真実の家族のかたち。
あなたも、もう一度「家族」を考えてみませんか?
そして、人と人との「絆」を取り戻してみませんか?
これを読んで、
「あぁ、確かに企画意図通り”家族”や”絆”を考えさせられました…」
と言える人を 私は、羨ましく、かつ、哀れに思う。
私の率直な感想は
意味不明です^^;
