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2005年04月27日

● K鮨の話(その2)


今現在の私が何者で どういう仕事をしているのかは 恥ずかしいし、どうでもいい事なので具体的には言いたくない。




しかし、今 私が のほほんとして生活出来ている事の要因は 喫茶「職安」で出会った大人達から教わり、その後も いろんな場面で可愛がってもらったおかげ以外の何モノでも無い。


今思えば、喫茶「職安」に集っていた大人達は 皆、それぞれ中味は違えども「信念」の様なモノを持っていた。 そして、「人生」というもの その時々の生活を もの凄く楽しんでいた。


後に、東京の大学に進学し 数年ではあるが都内でサラリ-マン的な生活も味わったが、毎朝の通勤電車で 死んだ様な疲れた目の通勤客に囲まれるたびに


「このまま この人達に馴染んだような 同じ風景の中に溶け込みたくない…」


と、生意気な事を 私が思うようになっていったのも、そのバイト時代の経験が原因と思う。


時系列で言えば、私が この喫茶「職安」に通い始めたのは 高校1年の秋頃からである。


世界の中心で愛をさけぶ』カテゴリ-の記事の中で紹介した 白血病で亡くなった我が友は 高校入学から間もなく 発病して入院したので 私が この喫茶「職安」に通い始めた頃には既に入院していたが、病名が「白血病」だとは知らず、高校に入ってすぐに野球部にも入ったが、真剣に甲子園を狙う様な強豪では無かったから、ほとんど同好会的活動で 秋の新人戦(春の選抜の選考大会)を終えると 冬の間は「勝手に自主トレしてなさい」だったから 気楽でもあった。


だから、高校2年になって 友を白血病で失い、その経緯の中で 子供なりに 死生観とか宗教観とか いろんなモノを考えながら 喫茶「職安」での日々を過ごしていたのである。


先に掲示した『「屯田兵の御隠居」』で述べた「屯田兵の御隠居」がポックリ死んだのは 高3の初夏である。


今思えば この僅かな数年の間に いろんな事があったものである。


K鮨というバイト先は 私にとって とても居心地の良いバイト先だった。


当初は年末の かき入れ時だけ…という話だったが 後に


「来れるなら毎日でも いいよ」と


K親方から言われたりもしたが、概ね 週末の金・土の二日間を主に 他のバイトなどが無い時… そんな感じで バイトに出ていた。


K鮨では 暇な時間に シャリの作り方、魚のさばき方、巻物の巻き方、そして鮨の握り方まで教えて貰った。


時給が良く、鮨が食べ放題… それも もの凄い魅力だったが、ススキノの夜…という大人の世界、それも 華やかな表面だけでは無く、ソ-プの休憩室や オカマ達の日常…といった裏側を覗く事が出来た事 それが人生において どれだけ有意義な経験になったのか? そう問われれば 具体的に、こうこうですよ…と応える事は出来ない。


しかし、何も知らずに過ごすより、知った上で現在に至る自分の過去を思えば やはり、有意義な経験だったと自信を持って応える事が出来る。


それは、K鮨は ただの寿司屋では無かったからだ。


前回、『K鮨の話』という記事の中で


このK鮨は 当時としては とても変わった店で、小上がり風の6畳の座敷が4つあるだけで 寿司屋特有のカウンタ-は無く、接待とか 密会の客専門の寿司屋として売り上げの半分 残りの半分は 全部、出前という店だった。



と述べた。


で、4つあった六畳間のうち いつも そのうちの一部屋を「屯田兵の御隠居」(『「屯田兵の御隠居」』という記事を参照願います。)か 隠居の運転手兼・付き人兼・片腕(?)的存在だったNさんが 二人で、もしくは どちらか一人が いつもそこにいて その小上がりのひと間が「御隠居」のオフィスみたいな場所として占領されていたのである。


ここで、御隠居は 水商売で働く人達相手に「金貸し」「アパ-トの斡旋」「よろず相談」を引き受けていたのだ。


最近は、随分 変わった感があるけれど、当時は まともと思しき不動産屋や金融業は水商売の関係者相手に 部屋や金を貸す業者が無いに等しく、その隙間を御隠居が埋める様に商売してたのだ。


御隠居は 自分でススキノ周辺にアパ-トをいくつも所有していたし、相当な金持ちでもあったから 小口の融資は気軽に相談にのっていたのである。


また、本人は「趣味」と言っていたけれど 昼間の株取引や不動産の売買に絡んで 銀行や証券会社、それに胡散臭そうな自称:不動産屋が頻繁に訪ねて来ており、「屯田兵の御隠居」は K親方に「アイツらからは徹底的にボッタくれ」と指示していたので K親方は鮮度の落ちかけたネタや 売れ残りそうなネタを優先的に使って 一見、豪華そうな盛り合わせに仕立てて出していた。


私のバイトとしての役目とは あくまでも出前の配達と 配達先からの桶を下げてくる事であったが、その合間の時間に 先にも述べた様にK親方からは 鮨職人の初歩、そして「御隠居」や片腕のNさんからは 世間話という名の「人生観」を雑談の中で教わっていた。


当時は 今の様に「闇金融」とか「カ-ド破産」とか そう言った言葉は無く、「サラ金」と言う言葉だけは 使い始められて間も無い頃、「不良債権」とか「貸し渋り」とか「貸し剥がし」なんて言葉も一般的には使われていなかった。


しかし、K鮨の その小上がりのひと間の中では 既に、「競売物件を買い叩いて…」とか「~銘柄は 仕手株なのか?」なんて会話が飛び交っていた。


片田舎の札幌の それも小汚い寿司屋の小上がりに バブルなんて言葉も無い もっと前の時代に そんな世界が既に そこにはあったのである。


そんな時、私はK親方から 鮨職人の基礎を学びつつ、御隠居やN氏から株取引の基本や不動産売買、金融の基本を学んでいた事になる。


私は その当時「将来~になりたい」という様な 夢というか目標が漠然としたものすら無かった。


高校生だったし、バイトだったから 責任感…というものも皆無に近かった。


そんなガキに 大人達は雑談混じりに「株価チャ-トが ~の時は 買うと面白い」とか「ヒラメを三枚におろすには…」なんて事を教えてくれたのだった。


当時の札幌で「北海道拓殖銀行」とか「山一証券」という企業は その当時の親達の合い言葉


「一生懸命勉強して 良い大学に進んで、良い会社に入って…」


という言葉の「良い会社」に 充分、認めて貰える会社だった。


けれども、K鮨でバイトしている間、入れ替わり立ち替わり、「屯田兵の御隠居」の元を訪ねて ヘラヘラ笑顔で御機嫌を取り、時には 畳に両手をついて土下座して「是非、御協力を…」なんて 三文芝居でも見れないような諂い方をしている大人の殆どが 拓銀のどこかの支店長や本店の部長クラスだったり、山一や大和の部長職だった。


現在になって それが現実だ…と自分なりに理解しているが、当時 何も知らないガキだった私は 良い大学に進むのはともかく、「良い会社に入る」のが けっして魅力的な事では無いと悟らざるを得なかった。


それを「屯田兵の御隠居」に なに気に言ったところ、


「人生は一回こっきりだからな、楽しまなかったら駄目よ、でもな 楽しむためには その分、苦労もしなきゃ駄目」


と、言った上で


何かを得るためには 何かを失ったり、我慢しなければならない事が多い


と、言ったのだ。


この言葉は もの凄く私にとって説得力のある言葉となり、その後の 私の座右の銘となるのだが… つい先日、TV版「世界の中心で愛をさけぶ」の中で


何かを失うことは 何かを得ることだと思わない?


と言う台詞に出会い 今、あらためて哲学するに至る。


TV版「世界の中心で愛をさけぶ」のおかげで 「セカチュ-症候群」を患って以来、そもそもが亡き友の記憶がキッカケというか要因なのであるけれど、亡き友が この世を去った頃の事を思い出す。


すると、どうしても関連して想い出すのは喫茶「職安」での日々なのである。


亡き友が この世を去って間もなくの頃、「世界の中心で愛をさけぶ」の朔太郎ほどではないが、「喪失感」「死生観」「人生観」そんなものを想い 何も手につかないような日々があった。


そんな我々バイト少年達に いろんな事を教えてくれたのが喫茶「職安」の常連達だった。


「その女の子は残念だったねぇ… でも、オマエは生きてるからね」


K親方は そう言った。


漠然とした言葉だったけど「そうなんだよな」と 素直に思った。




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