● 「屯田兵の御隠居」
喫茶「職安(通称)」を語る上で まず、最初に語らなくてはならないのは 当時、ススキノで「屯田兵の御隠居」と呼ばれた 爺さんである。
「屯田兵の御隠居」という呼び名の由来は この人が実際に屯田兵だった…というのでは無く、正確には「屯田兵だった人物の孫」なのであるが、長くて面倒だから縮めているだけの話。
この爺さんが自ら語った生い立ちによれば、
「ススキノから中島公園の辺りまで 原生林だった土地を切り拓いたのは 俺の親父や爺さんで それを、俺が遺産で引き継いだんだ…」
しかし、この爺さんは ホントに とぼけた喰えない爺ぃで いつも法螺を吹き、出まかせばかり語る爺ぃだったから どこまでが事実なのかは信用出来ない。
ただ、ハッキリしていた事は 市内の中心部に 実際に多くの不動産を所有し、自らも不動産業を生業に バブル景気なんかよりも かなり前の時点で不動産売買や株取引で金だけは持ってる爺ぃで、今は無き北海道拓殖銀行(当時は道内最大の都市銀行だった)の支店長クラスを電話一本で呼びつけては 雑用を押しつけて虐めて遊ぶのが大好きな 性悪爺ぃだった。
そんな「屯田兵の御隠居」が 晩年になって恋をした。
その相手は 当時、札幌で1・2を争う高級クラブで 屈指の売れっ子だった美人姉妹の姉にである。
「屯田兵の御隠居」は 毎晩の如く、その店に通い 毎回、一晩で 当時の大卒サラリ-マンの初任給と等しいぐらいの金を平気で遣って遊んでいた。
そんな爺ぃが 自分の娘や孫と変わらない歳のホステスに 少年の様に恋をしたのである。
毎晩、通い詰めては 信じられないぐらいに金を遣い、ホステスに貢ぎもし、やがて、そのホステスは身体を壊し入院したのだが、その入院の原因を作ったのは 自分のせいに違いないと勝手に思い込んだ「屯田兵の御隠居」は 金に物を言わせて H大学の付属病院の貴賓室と呼べる程の病室を借り切り、2ヶ月間に渡る入院費・治療費の全額を負担した。
そして、退院の目処が立った姉と どういう会話が交わされたのかは正確には判らないが、後に漏れ伝わった話によると
「水商売から足を洗って 退院後は 貯金を元に喫茶店を始めようと思うの…」
という姉に
「嫁になってくれとは今更 言わない。
(本妻や実子がいるのだから 言える訳が無い)
妾になってくれとも言うつもりも無い。
残り僅かな寿命の爺ぃのワガママを聞いてくれ…」
とした上で、自分が所有する不動産のひとつを改築した喫茶店を一軒 快気祝いとしてプレゼント(タダで)する代わりに、店の休みの日までは別として 営業日は そこで毎日昼飯を タダで食わせてくれ… と言ったのだそうだ。
後に、「屯田兵の御隠居」は バイト少年達に
「ありゃ ワシのプロポ-ズじゃよ フェッフェッフェ・・・・」
と語るが、それに対して ママ(姉)は
「お昼のランチ代が400円(当時の物価)として
日払いのロ-ンで喫茶店を買ったと思えば安いモノよ…」
と、「せがんで貰った訳じゃない」と強調した^^;
だから、毎日、ランチタイムになると 余程の事が無い限り、見るからに偏屈で因業そうな爺ぃがス-ッと何処からか現れて 喫茶「職安」のカウンタ-の端っこに座って 幸せそうにランチを食べていた。
最初の頃、バイト少年達は 「屯田兵の御隠居」とママの間に そんな話があった事など全く知らなかった。
ましてや、世間知らずのガキばかりだったから その爺ぃが どれだけの金と権力を持っている爺ぃかなんて知る由も無く、だから 平気で爺ぃさんにタメ口をきき、時には
「爺ぃさん もしかして家庭でもて余されているのか?
だったら、思い出話の聞き役ぐらい
何時でもなってあげるから コ-ヒ-奢って」
なんて事を言っては 私達は その爺さんにタカっていたものだ。
実際に 持ち前の因業さで家庭内で浮いていたのは事実だったそうだから…「屯田兵の御隠居」は 少年達の そんな対応が逆に新鮮で嬉しかったらしい。
自分の若い頃、実際に海軍士官として太平洋戦争に従軍した時の話を バイト少年達に話しては 昔を懐かしみながら 亡き戦友達の事を遠い目をしながら語って過ごしていた。
とりわけ、私が軍人家系の子供だと知ってからは 特に、私を可愛がってくれて 変な話ではあるが その後も個人的な遊び友達として関係は続くのである。
今では 本当に見かけなくなってしまったが、子供の頃、祝祭日の日は 家の玄関に日の丸の旗を掲げる家を よく見かけたものである。
当時、私は自衛隊官舎に住んでいたから それは ごく当たり前の光景で、一般の家庭でも まだ、そういう家が たまにあったのだが、我々が高校生の頃にもなると、学生運動などの影響が まだ冷めやらぬ頃だったから、玄関に日の丸を掲げると「あそこは右翼だ」と 左翼系の学生や労働組合関係の活動家に嫌がらせをされる事が多く、ゆえに 急激にそういう一般家庭は減ったものだが…
「屯田兵の御隠居」は祝祭日の日に喫茶「職安」に現れる時には 必ず日の丸を持参して、勝手に店の入り口に掲げていたし、8月15日(終戦記念日)の正午には 店の屋上で 愛用の従軍ラッパを吹いていた。
ママは「屯田兵の御隠居」のそういう行為は 内心、迷惑がってはいたけれど「それだけは御隠居の好きにさせたげな…」と黙認していたものだった。
ある祝日の日の事、いつもはニコニコしながらバイト学生相手に将棋をさしたり、昔語りをして機嫌良く過ごしていた「屯田兵の御隠居」だったが、店先に掲げた日の丸を 見ず知らずの通行人が「こんなモン飾ってんじゃ無ぇよ」と 引き抜いて道端に投げ捨てた時に見せた激怒は凄まじかった。
もの凄いスピ-ドで店から飛び出していき 20代半ばで頑健そうな その通行人を引きずり回してボコボコに殴り飛ばしたのだ。
当然、警察沙汰になり 老体にかかわらず留置されてなお、頑として自分の非を認めず
「謝る気なんか無い。裁判でも懲役でも 好きにせい!」
ずっと、そう言い続けた。
私は その間、喫茶「職安」の常連で弁護士だったOさんと一緒に「屯田兵の御隠居」が留置されていた警察署に行き ママお手製の差し入れ弁当を届け、取調室で「屯田兵の御隠居」が弁当を食べている間 ずっと付き合わされた。
そこで、私は
「爺ぃちゃんさぁ、適当なところで謝れば 慰謝料で済むらしいよ、そうしなよ」
と、何も知らず 安易に そう言った事がある。
すると「屯田兵の御隠居」は つまらなそうに私を見て
「あのガキ(被害者の青年)は 日の丸を粗末にしやがった。
俺の戦友達が身体を張って護った日の丸をだ。
そんなガキに謝ったりなんかしたら あの世で戦友に会わす顔が無いわっ!」
そう答え、それ以上 何も言わなかった。
実際に、取り調べの担当刑事にも それしか言わなかったそうだ。
結果、示談になんかならず 2ヶ月間、留置所暮らしの末、裁判となり、情状酌量で懲役6ヶ月 執行猶予2年という判決となって釈放された。
たった2ヶ月の留置で 体重は減り、髪の白さやうすさも増していた。
しかし、目だけは爛々と輝き
「鬼畜米英相手に戦った時を思えば こんなもん苦労のうちにもなりゃせんわ」
そう言って豪快に笑った。
しかし、老体に2ヶ月の留置は過酷だったのであろう…
それから さらに2ヶ月の後、ポックリと「屯田兵の御隠居」は逝った。
寝てる最中に 心臓発作が起きたんだろう… というのが死因だった。
通夜の席で「屯田兵の御隠居」の遺影を眺めていたら 御隠居の息子が
「爺さんの若い頃の写真だよ」
と言って バイト少年達に古い数冊のアルバムを見せてくれた。
手書きの添え書きを見ると
「昭和16年 上海にて…」
として 少壮の海軍士官と 女給さんらしき 年頃の女性が二人で写った写真があった。
そう言えば… 留置所に弁当を届けた時 なにげに聞いた話がある。
私「爺ぃちゃん なんでママに 喫茶店をプレゼントしたんだ?」
隠居「昔なぁ 本格的に太平洋戦争が始まる前の 支那事変の頃によぉ…ワシゃ、巡洋艦に乗っておってなぁ…
その艦が上海の港に入港した時に
カフェで女給しとった女の子に ひと目惚れしてなぁ…
その女の子に ママがそっくりなんよ…」
写真の海軍士官は まぎれもなく御隠居の若い頃の姿であろう… しかし… 隣に写った女給はママには全く似てなかった。
「爺ぃさん 全然、似て無ぇじゃん…」
(ホントなら ここで貰い泣きのひとつもするべきなのだが、あまりの似て無さに 生前の とぼけた爺ぃぶりが想い出されて 泣けるよりも笑えて仕方が無かった)
翌日、本当は しめやかに行われる筈だった葬儀の席に 日本全国から「ホントかよ?」というぐらい 大勢の人が集まった。
聞けば、皆 海軍で「屯田兵の御隠居」と 寝食を共にした戦友達だという。
そんな人達と話していて ふと、隠居が日の丸を引き抜いた若者をボコボコにした暴行事件の話が出た。
すると、その話を聞いていた 戦友達は 皆、一様にしんみりとなり
「そうか… 少佐殿は忘れておられんかったのか…」と言う。
戦時中、「屯田兵の御隠居」の乗った艦は 米機動部隊の空襲に遭い撃沈されたのだという。
その戦いの最中に 艦の艦尾に掲揚したまま格納し忘れた軍艦旗を 米軍機の空襲の中を走って取りに行き 戻るところを機銃掃射にあって死亡した若い兵がいたのだそうだ。
その兵を「屯田兵の御隠居」は 弟の様に可愛がっていたそうで、兵の死を目の当たりにした彼は、軍艦旗を死んだ兵の遺志と尊重して受け取り、乗艦が沈没後 投げ出された海上でも肌身離さず 救助されると共に持ち帰ったのだと言う。
「”日の丸”ってのは それだけ、俺達には大事なモノだったんだよ…」
戦友達は そう言って また泣いた。
「あのガキ(被害者の青年)は 日の丸を粗末にしやがった。
俺の戦友達が身体を張って護った日の丸をだ。
そんなガキに謝ったりなんかしたら あの世で戦友に会わす顔が無いわっ!」
私は 差し入れた弁当を食べながら そう「屯田兵の御隠居」が言ったのを 間違いなく聞いたし覚えている。
その言葉には そんな逸話があったのか…と 思うと、因業な爺ぃだったが、愛すべき爺ぃだったんだと あらためて理解した。
葬儀の後、焼き場へと向かって走り去る霊柩車に 戦友達が老体とは思えぬほどピンと背筋を伸ばして敬礼している姿は圧巻だった。
その当時、私の通っていた高校は 「日教組」と赤地に白で染め抜いた鉢巻きや腕章を付けて やはり真っ赤に白文字で 「団結」とか「日教組」と書かれた大きな旗を振り、
「”君が代”反対!!、”日の丸”掲揚反対!!」
と ヒステリックに叫ぶ教師達が大勢を占め、組合活動と称してはストライキを行い、他の労働組合の支援…と称しては 授業を放棄し、生徒をほっぽらかして組合活動に熱を上げる教師達ばかりで その為に授業が自習になったり、急遽、午前だけの授業で 午後から帰らされる事も しばしば起きた。
社会科の教師は 如何にマルクス・レ-ニン主義が 将来性のある素晴らしい思想だと 暇をみつけては蕩々と述べていたし、私が自衛官の息子だと言うだけで
「オマエには間違った思想が植え付けられている可能性が高い…」
と言い、
「軍国主義と話しても なんの意味も無い」
と言って、家庭訪問にさえ来なかった担任もいる。
たまたまではあるが そんな二極化した大人の姿を 同時に見る事が出来たので 今、現在の私があるのだと思うと感慨深い。
単純に「暴力」をふるった爺ぃは 褒められる事では無いと思う。
しかし、御隠居のふるった暴力には 私は「信念」を感じる。
その「信念」の根底にある「想い」 それを感じ、教わったからこそ、当時の担任教師を「クソ野郎」と罵り、「御隠居」を「愛すべき爺ぃ」と思う私に至ったのである。


