● 「世界の中心で愛をさけぶ」後遺症
メモリアルブックだったか、DVDの特典映像だったか、公式ペ-ジだったか…
どこで目にしたのか どうしても思い出せないのだが、TV版「世界の中心で愛をさけぶ」関連の何処かで 演出家:堤幸彦が
「新しいスタンダ-ドを作りたい」
そういう意味の事を話していた。
最初、それを目にした時、「スタンダ-ド」という言葉が 何をどういう意味で示しているのかがうまく判らず、あまり気にもならなかったのだが、今となって「セカチュ-症候群」に 完全に冒された私としては この言葉を もの凄く痛感出来る。
私は ドラマの制作という仕事には関わった事が無いから どういうプロセスを経るのか正確には知らない。
だから あえて想像で語るが、全11話の連続物のドラマを作る場合 それも一話完結方式ではない「世界の中心で愛をさけぶ」の様なスト-リ-を映像化する場合に 例えば、1話から5話までは アキが病に倒れる前のエピソ-ド、6話以降は倒れてからのエピソ-ドという風に ざっくりと分割した後、前半の部分に、後半のエピソ-ドへと どれだけ印象的なシ-ンを散りばめておけるか… しかも、そのシ-ンが どれだけ効果的に作用するか… こう言うと あたかも打算的な表現ではあるが、現実としては必要な事と思う。
現代のサク(緒形直人)を中心に映像を眺めると 17年前のサク(山田孝之)のシ-ンは あたかも回想シ-ンの様にも映る。
しかし、その17年前のサク(山田孝之)のシ-ンにも アキとの想い出の回想シ-ンが 何度となく登場する。
その時、その時での心理描写を表す手法としての回想シ-ンもあれば 状況描写としての回想シ-ンもある。
堤幸彦の映像は それが実に丁寧で緻密に それも他の演出家よりも はるかに多く埋め込まれている事に気づく。
例えば、『「アジサイの丘」に関する考察』で述べたが、アキバ系研究員達の「アジサイの丘」に関する考察も その一例だと思う。
また、以前、このブログに記した『あいくるしい 第2話』という記事に対して 光太郎さんから頂戴したコメントの中に
『セカチュー』の第7話「明けない夜」、『靴下のたたみ方でサクと亜紀が口げんかをする。』すこしほほえましい、なんでもないエピソードなんですが、第10話でサクが亜紀の部屋へウルル行きの荷物を盗み?に入る場面、一瞬ですが亜紀の靴下が写ります『亜紀がしていた通りにたたまれた靴下が!』 ・・・すべてが亜紀のいる世界・・・。
気の利いた脚本、細やかな演出に、こんな所で私は壊れます
という御指摘があったが、これも まさに同感。
「アジサイの丘」が台詞での伏線だとすれば、「靴下」は映像での伏線である。
また、「骨を撒く」「骨が撒けない」という 心理的葛藤に関しても、「祖父の骨」を撒くに至るプロセスへの 亜紀の関わり方と 「亜紀の骨」を撒くに至るプロセスで ここでも間接的に「亜紀が死んでしまった」事の喪失感が もの凄く重く、かつ もの凄く巧く表現されていると思う。
ウルルの丘で 骨を撒こうとするサクのシ-ンに 入ってくる回想シ-ン

サク「風来ないね…」
アキ「まぁまぁ… 気楽に待とうよ」
百瀬の駅で 祖父の骨を撒く時の状景だが、私は このシ-ンの亜紀が 映像全般を通して 元気な時の亜紀が最も可愛いらしく輝いていた時だと感じている。
だから、その可愛らしさに目を奪われてしまい 見失いがちなのだが、このシ-ンこそ
「何故、サクが17年間、骨を撒けなかったのか?」
という スト-リ-の重要な部分に 説得力を持たせていると感じられる部分だと思うのだ。

サクは 第11話で 谷田部先生から 骨の入った小瓶を持ち続ける事を「廣瀬を忘れない」為に?と 聞かれ、あえて「亜紀が死んだ事を忘れない」為に…と 言い直し、骨を持ち続けると言う。
つまり、それは ともすれば「亜紀が まだ生きている」という錯覚(幻想?)から抜け切れていない…という裏付けである。
この場合、錯覚から現れる亜紀は 元気で最も可愛いらしく輝いていた姿であるはずである… 妄想なのだから。
百瀬駅のシ-ンには「元気で最も可愛いらしく輝いていた姿」という意味と「骨を撒く」という「(サクが)一人では出来なかった作業の背中を 誰かが押す」という意味合いの伏線 という重要なシ-ンだったと考えられるわけだ。
では、何故 この百瀬駅のシ-ンが「元気で最も可愛いらしく輝いていた姿」に感じるのか?と言えば そのシ-ンの直後の「マリア様だっこ」のシ-ンである。
サクはナレ-ションで
「世界で一番、美しい物を見た」
と言う。
私自身も 今まで、いろんなドラマや映画を見てきたが このシ-ンほど美しく感動的なシ-ンは観た記憶が無い。
そういう意味で もの凄く説得力あるシ-ンなのだが、そんな中にも 後半への布石となる伏線が いくつもちゃんと込められている。
たとえば、亜紀が「ウン」と頷く所作。
そして

「私 太るよ、お爺ちゃんと同じぐらいになって 後ろに載るよ」
この一連のシ-ンを観て 泣けない奴とは 話もしたく無い。
そう思うぐらいに 素敵なシ-ンであるにも関わらず、その中にある 上の二つの仕込みの意味と後半での効果は TV版「世界の中心で愛をさけぶ」を御覧になった方には わざわざ語る必要は無いだろう。
さて、演出家:堤幸彦が言った「新しいスタンダ-ドを作りたい」 その「スタンダ-ド」の意味が、こういう綿密な布石の散りばめ方を指すのだとしたら、私は 大いに賛同し、評価し、感謝する。
たった1時間(実際には40数分)の1話分の中に 込められた作業の密度を高く評価したい。
その積み重ねの 回を重ねる毎の感動の深さに感謝したい。
私は 友人に
「TV版の”世界の中心で愛をさけぶ”を見ろ、それもDVDで ぶっ通し、1話から最終話まで見ろ」
と薦める、そして 必ず、
「最終話を見終わったら、出来るだけ早いタイミングで2週目を見ろ」
とも薦める。
それは 第一話の冒頭、

ウルルの丘で膝から崩れ落ちるサクのシ-ン 一回目に見た時は(私は)何気なく見れたシ-ンだったが、2週目は そこで もう完全に壊れた様に泣けたのである。

同じ様に、学年主任の葬儀のシ-ン、

防波堤の告白、そして告白した後に サクの横にストンと腰を下ろす亜紀… もう、たったそれだけで泣けたのである。

そして、一番、大きく違って感じられたのは 第4話のラストで 現代のサクが 谷田部先生と校庭で話ながら泣くシ-ン。
(ナレ-ション)
12秒91は 誰も知らない 僕達の公式記録
僕が忘れると無くなってしまう 亜紀の最後の記録だった…。
サク 「ずっと 独りでやっていこうと思ってたんです。毎日を忙しくしてれば 人生なんてアッという間だって…
で、気づいたら17年で…」
谷田部「もう?」
サク 「まだ…、まだ、なんです…死ぬまでに あと、17年 何回あるんだろうと思って…
ありもしない現実に期待して…、夢から覚めると泣いていて…
あと、何万回 僕は こんな朝を迎えるんだろう…って
もう、無理だと思ったんです…。」
谷田部「12秒91だったね 廣瀬のベスト…ストップウォッチ そのまま返すんだもん…
忘れなさい 松本。
あんた達のことは 私が覚えてるから 安心して忘れなさい…。
もう一度、誰かを乗せて走りなさい。」
全編を一度、全部観た後に、2度目に この4話のラストを観ると 現代のサクが過ごした17年間の「重み」が 何倍にも増して 1回目に見た時とは違った泣き方が 出来るハズである。

そして、ラスト直前の 防波堤で 現代のサクと亜紀父の会話へと繋がり、
(アキ父)「よく頑張ったな… サク、
生死を扱う仕事は辛かっただろう
もう充分だ、ありがとう」
という一言から サクが得られる開放感の様な気持ち…も 大きく変わり、リアル感さえ伴う。
それは ひねくれた言い方をすれば 演出家:堤幸彦と脚本家:森下佳子の「綿密な布石の散りばめ方」という名で仕掛けられた巧妙な罠である。
2度見直して 2回目には1回目とは違う それも、より深い泣き方が出来る… だから、私は
「一回だけ観た」
という人に
「なんて もったいない…」
と思うからこそ「2回観ろ」と言うのだ。
そういう巧妙な罠を仕掛ける事が「新しいスタンダ-ド」に したい…という意味なのだとしたら 私は その考えに大賛成だし、大歓迎である。
ただね、TV版の「世界の中心で愛をさけぶ」は 大成功し過ぎだね^^;
おかげで、その後に見るドラマじゃ なかなか感動する事が出来ない。
なかなか泣けないのである。
「あいくるしい」や「瑠璃の島」 TV版の「世界の中心で愛をさけぶ」を観る前だったら たぶん、それなりに泣けたはずのシ-ンで 泣けなくなっている私がいる。
これは 実に困った事である。^^;
堤幸彦よ… そして、森下佳子よ… 頼むから、責任取ると思って また、違った感動の出来る一本を 御願いしたい。


