● アメリカ横断ウルトラクイズ
昔、「アメリカ横断ウルトラクイズ」という番組が日本TV系で 毎年、年に一回 秋に放送されていた。
実際には 8月の第2日曜日に後楽園球場(今の東京ド-ム)に参加者は集まって
「ニュ-ヨ-クにある自由の女神は 贈られたフランスの方向を向いている・・・ ○か×か?」
なんて第1問から ○だと思ったら1塁側 ×だと思ったら三塁側のスタンドに入る。
実際には そこで100人にしぼられて 1・2週間後の指定日に あらためて成田空港に集合し ジャンケンで半分の50人にしぼる。
その後、あまりか国内を転々と場所を変え 少しづつニュ-ヨ-クに近づきながら 場所を変えるたびにクイズを行い、数名づつ振り落とされ、ラスト2名がニュ-ヨ-クで決勝戦を行う。
成田からニュ-ヨ-クまで 移動する期間が 約3週間。
最後まで勝ち残るのには その間、ほぼ1ヶ月 日本を離れるわけで 仕事や学校は休み、ともすれば学校を留年したり会社をクビになった者もいた。
それだけの犠牲を払ってでも 参加する意欲を掻き立てられる番組だった。
第1回は、1977年(昭和52年)に行われた。
関東周辺だけに参加募集を行ったらしく、北海道にいた私は その事を知らなかった。
秋になって 私は その放送を観て、その番組こそ 私が参加すべき番組だと思った。
決勝戦に勝ったチャンピオンの それまでの苦闘を報いるには あまりにもバカにしたような賞品
たしか、第1回の優勝賞品は「ラスベガスの外れにある 何も無い砂漠の土地を1エーカー」だった。(と、思う)
翌年、忘れかけていた頃、なんの番組だったかは忘れたが 放送終了時のテロップに
「第2回アメリカ横断ウルトラ・クイズ参加者募集」
という記事が流れたのを 私は見逃さなかった。
早速、問い合わせてみると 参加資格には「参加中の期間内が有効期間内であるパスポ-トを所有している事」という一項があった。
当時、私はパスポ-トを所持していなかったから 慌てて申請に行くと (当時の)添付書類には 戸籍謄本や住民票などの他に
「渡航費用(往復)を 間違いなく賄えるだけの金額の所有を証明できる物(充分に残高のある預金通帳と その残高証明等)」
となっていた。
アメリカ横断クイズである。
私は 北海道庁の申請の窓口で
「アメリカ横断クイズに参加するために パスポ-トが必要なんです。 クイズだから渡航費用は番組持ちです。」
と、言ったが 相手は小役人である。
「ホントに番組が払うかどうか 保証してくれる書類を添付して」
クイズに勝ち上がらなきゃ 払ってくれるわけ無いじゃん!
「だったら、自己資金で 大丈夫…って書類を添付して、アンタ それぐらいの預金無いの?」
当時ね ニュ-ヨ-クまでの運賃 いくらしたと思います?
記憶に残らないぐらい べらぼうに高かった。
当時の私には 天文学的数字です^^;
今だから 正直に言いますが、親父に
「一時的に残高作るために金を貸してくれ」
「なんのために?」
「アメリカ横断クイズに参加するため」
「バカヤロウ!! (怒号&往復ビンタ)」
と、殴られたんです。
で、小金持ちの ある小父に頼み込んでコソッと貸してもらった金で 残高証明を作り添付しました。
今は そんな書類を添付する必要は無くなりましたが、
「万が一 渡航先で何かが起きた時、自己負担で帰る旅費ぐらい持ってないと駄目だよ」
という意味で 定められた一項だったとは思うが、この時の私の様な者にとっては全く関係の無い措置である。
しかし、「クイズに参加するためには パスポ-トが必要なんです」
と言う私に 窓口担当者は冷たかったね。
「そういう動機は 不純なんじゃないかな」
今だったら
「小役人ごときが どの口で そんな偉そうな事を語ってんだ?」
と 窓口で声を荒げるのであろうけど その頃の私はピュアだった。
そんな過程を経て 第2回の「アメリカ横断クイズ」に参加した私は 番組が終了した第16回までの15年間 毎年、8月の第2日曜日は後楽園に赴き参加した。
水道橋の とあるビジネスホテルでは 毎年、前日になると「アメリカ横断クイズ」に参加する人が集った。
顔ぶれは いつも殆ど同じで、全国各地から「今度こそは」と意気込んで集まった。
皆、第1回から第3回ぐらいまでの間に初参加し その後、ずっと参加し続けた人達で 毎年、同じ時期に集まっているウチに
「お? 今年も来たね」
「今度こそ 行くよ 成田までは…」
なんて会話で盛り上がったものである。
中には アリゾナの砂漠のバラ撒きクイズまで進出した人もいたし、勝ち残って 休暇の延長を国際電話で会社の上司に頼んだら
「オマエの席は もう無いよ」
と、クビになった人もいた。(これホントに実話)
クイズの日の朝、みんなでモ-ニングを食べながら
「また、来年 ここで逢おうな」
合い言葉の様に そう言って、笑顔で別れる
そんな事を 第16回の1992年(最終回)まで毎年 繰り返し、番組が終了した現在、その人達とは 暑中見舞いだけの付き合いと変わってしまったが、今でも親交は続いている。
日本テレビにしてみれば ただの番組…だったかもしれないが、私達にしてみれば 8月の第2日曜は
「ニュ-ヨ-クへ行きたいか?」
「オ-!」
と 叫ぶのが 夏の風物詩だったのだ。
先日、終了したSOCOMもそうだが、提供する会社は営利を目的とし 採算が合わないとか、元々 そういう主旨でしたから…とか、ソフトをひとつのモノとしか扱わない。
しかし、そのソフトが 生きるも死ぬも参加している視聴者であり、プレイヤ-なのである。
大勢のプレイヤ-が集うのだから そこにはプレイヤ-それぞれに楽しみ方や、思い入れや、様々な「気持ち」が生じるのだが、なかなか提供会社側は その「気持ち」を理解しない。
まったく寂しい話である。
ちなみに 私は15回の参加の中で 成田のジャンケンまで勝ち進んだ事は一度もない。
最高で 残り400人 というとこまでである。
数万円の交通費や宿泊費用をかけておきながら 第1問で敗退した事も数度ある。
でも、後楽園(東京ド-ム)を後にする時は
「来年こそ 勝ち上がるぞ」
そう闘志が沸いたのだ。
その闘志が 活力となって頑張っていた…と 思える部分もある。
残念ながら 今、身の回りに そういう活力になるネタが無い。
これまた寂しい話である。
